大判例

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東京高等裁判所 昭和60年(ネ)3303号 判決

控訴人

岩村文雄

明石芳蔵

石渡三代吉

鈴木勉

髙橋武雄

斎藤勝秀

小川栄次

笹本幸夫

小谷政幸

鈴木參夫

藤田次郎

鈴木六蔵

大和田義雄

仁科力

高山数則

駒村寅正

丸尾勇

古谷正利

加藤幸子

佐々木勝利

原良一

岩崎秀宏

宮沢次助

本多竹夫

亀崎幸正

三ツ橋武男

藤平八郎

内藤宗幸

石橋信喜

元九州男

右控訴人ら訴訟代理人弁護士

竜嵜喜助

大倉忠夫

武下人志

小林章一

乾俊彦

根岸義道

被控訴人

右代表者法務大臣

左藤恵

被控訴人

神奈川県

右代表者知事

長洲一二

右被控訴人両名指定代理人

田中治

外六名

右被控訴人国指定代理人

山崎弘善

外三名

被控訴人

横須賀市

右代表者市長

横山和夫

右訴訟代理人弁護士

中山明司

大友秀夫

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人ら

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人らは各自控訴人らに対し、別紙「請求金額一覧表」中「合計額」欄記載の当該各金員及び右金員のうち同表「被害額」欄記載の当該各金員に対する昭和四九年七月八日から支払済みに至るまで年五分の割合による各金員を支払え。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

4  仮執行宣言

二  被控訴人ら

(被控訴人国及び神奈川県)

主文同旨

(被控訴人横須賀市)

本件控訴を棄却する。

第二  当事者の主張

当事者双方の主張は、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。ただし、次のとおり付加、訂正する。

1  原判決書五丁表五行目「別紙原告目録」から同所一一行目「被承継人らをいう。)」までを「別紙控訴人目録記載の控訴人ら(ただし、別紙控訴人目録記載8、10の控訴人(以下「承継人ら」という。)については別紙承継人一覧表の被承継人ら(以下「被承継人ら」という。)が該当する。なお、以下単に「控訴人ら」というときは承継人らについては被承継人らをいう。)」に、同丁裏一行目「別紙原告目録」から同所二行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録のうち、26、27を除く控訴人ら」に、同所三行目「別紙原告目録(二)26ないし33の原告ら」を「別紙控訴人目録記載26、27の控訴人ら」に、同所七行目「別紙原告」から同所八行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録のうち、26、27を除く控訴人ら」に、同所一一行目「別紙原告目録(二)26ないし33の原告ら」を「別紙控訴人目録記載26、27の控訴人ら」に、六丁表一行目「別紙被害一覧表(一)、(二)」を「別紙被害一覧表」に、それぞれ改める。

2  一八丁表七行目「別紙原告目録」から同所八行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録記載1ないし9、30の控訴人ら」に、同丁裏九行目「別紙原告目録(一)37ないし40記載の原告ら」を「別紙控訴人目録記載10ないし12の控訴人ら」に、一九丁表五行目「別紙原告目録(一)41ないし50」から同所六行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録記載13ないし17、23、24、29の控訴人ら」に、同丁裏五行目「別紙原告目録(一)51ないし72」から同所六行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録記載18ないし21、25の控訴人ら」に、二〇丁表九行目「別紙原告目録(一)73、74」から同所一〇行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録記載22、28の控訴人ら」に、同丁裏七行目「別紙原告目録(二)26ないし33記載の原告ら」を「別紙控訴人目録記載26、27の控訴人ら」に、それぞれ改める。

3  二五丁表五行目の次に行を変えて、「なお、このように複数の瑕疵がある場合に、これらを個別に捉えその部分だけの危険性を考えて、平作川全体の瑕疵を把握するべきではない。仮に、それぞれの各点の欠陥が、そのものだけを取り出してみれば、溢水の危険が二割か三割程度のものにしか過ぎなくても、これらの欠陥が複合した場合には、河川全体として一〇割の危険性に達する。すなわち、河川の個別的欠陥は、競合することによって危険性が増幅されるのである。河川の設置管理の瑕疵を論ずるには、まず河川を全体のものとして捉え、各欠陥の有機的相関関係を考察した上で、一体としての瑕疵の有無を論ずべきである。」を加える。

4  三〇丁表一一行目「低い追浜地区」を「低い鷹取川の流域である追浜地区」に改め、同丁裏六行目の次に行を変えて、「追浜地区の浸水区域の中心は、追浜本町一丁目と鷹取町二丁目であるが、同地域は、昭和三八年ころから始まった乱開発に伴い水害要因が倍加したことから、下水道改良工事が採られている。しかし、長銀・辰巳団地及び池田団地等が造成された際には、そのような措置は採られていない。

人口増加率をみても、水害常襲地帯といわれた追浜本町一丁目の人口は、昭和三五年から同四〇年までの五年間に、わずか三四人しか増加していないし、五年後の昭和四五年には逆に三三〇人減少している。鷹取町二丁目もわずかの増加にすぎない。しかるに舟倉町での人口増加は著しく、この人口増加率からみても、むしろ舟倉、久比里地区から先に水害対策が実施されるべきであった。さらに、昭和三九年度の「横須賀市地域防災計画」によれば、水害危険区域として、平作川左右岸は、重要度B、延長一〇〇〇メートル、溢水氾濫の危険があるとされているのに対し、鷹取川左岸は、重要度BC、延長二〇〇メートル、侵蝕溢水の危険大なりとされているのに過ぎないのであるから、その重要度及び範囲、さらに溢水のほかに氾濫まで予想される点において、平作川における水害の危険性はより大きかったと言わなければならない。昭和四四年度の「横須賀市地域防災計画」によれば、舟倉及び久比里の両地区だけで浸水見込戸数は、一〇七世帯にも達し、追浜本町一丁目と鷹取町二丁目の合計三六世帯の三倍にも達し、両町全体の九六世帯よりも多い。全体地区を比較しても、久里浜地区全体が三六〇世帯を数えるのに対し、追浜地区全域はわずか一二七世帯にすぎない。

このように、平作川右岸の京浜急行久里浜駅周辺の人家増加状況は、追浜駅周辺と大差はなく、人家密集を基準にすれば、久里浜駅周辺も水害を受けてきたのであるから、本件水害発生地域を含む久里浜地区と比較する場合、都市下水路事業を実施すべき時期につき追浜地区と差をつけるのは不当である。水害の発生頻度から見ても、本件水害発生地域の防災対策が不当に遅れたのは明らかで、本件下水路に近接する山地に長銀団地が宅地開発された時期と、鷹取川に近接する鷹取団地が開発された時期に大きな差はなく、雨水処理の機能を持つ都市下水路として防災事業を遅らせる理由はない。仮に予算の都合により遅らせるとしても、鷹取川については昭和四一年と四五年の二回にわたり都市下水路事業決定をしながら、本件水害地域には、公共下水道としての都市計画決定さえも昭和四八年度までおこなっていないのである。そして、昭和四八年度以降の本件水害地域の下水道事業に投入された費用をみても財政的に大きな比率ではなく、財政的制約により工事が遅れたとはいえない。」を加える。

5  四〇丁表末行の次に行を変えて、「吉井川、甲・乙・丙水路からの溢水と本件水害との間にも、次のとおり相当因果関係がある。

吉井川等は、過去にも、平作川の溢水なくして、床上、床下の浸水被害をもたらしているのであって、本件水害時の降雨状況をみれば、仮に平作川からの溢水が生じなくとも、吉井川等の溢水により床上浸水の被害が生じたことは明らかである。

仮に、総溢水量と本件下水道との溢水量との関係が明らかでないとしても、本件床上浸水被害と下水道からの溢水との間にも相当因果関係を認めるべきである。そうでないと、下水道からの溢水量と平作川からの溢水量を算出しなければならないことになるが、そのような証明はおよそ不可能を強いるものである。本件下水道は、その放流先である平作川に開口部を有し、甲水路を除いては、すべて開渠であるから、放流すると同時に逆流も受け、両者の水は互いに影響し合いながら渾然一体となって同一水位に保たれるから、一体どこの水が溢れたのか明らかとなるはずがないのである。」を加える。

6  五二丁表七行目「別紙原告目録(一)」から同丁裏五行目「金一七二万五〇〇〇円」までを「別紙控訴人目録記載1、3、6、8、9、10、11、14、15、17、20ないし26、28、30の控訴人らは各金一一五万円、その余の控訴人らは各金一七二万五〇〇〇円」に改める。

7  五五丁表末行「別紙原告目録」から同丁裏一行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録記載23、24を除く控訴人ら」に、同所七行目「同1(二)(3)のうち」から同所九行目「否認する。」までを「同1(二)(3)は否認する。」に、五六丁表、二、三行目「その余は不知。同2(二)(2)は認める。同2(二)(3)、(4)のうち乙・丙水路」を「その余は否認。同2(二)(2)ないし(4)のうち、甲・乙・丙水路」に、同所一〇、一一行目「吉井川及び乙・丙水路」を「吉井川及び甲・乙・丙水路」に、それぞれ改め、五八丁表一、二行目「、丙水路は」から「暗渠」までを削除し、同所六行目「認め、」と「吉井川」との間に「丙水路は末端の一部が開渠で大部分が暗渠であること、」を挿入し、同丁裏七、八行目「別紙原告目録(一)41ないし50の原告ら」を「別紙控訴人目録記載13ないし17、29の控訴人ら」に、同所九、一〇行目「別紙原告目録(二)6ないし16の原告ら」を「同目録記載23、24の控訴人ら」に、それぞれ改める。

8  七〇丁表一行目「この急激な」から同所二行目「すさまじく、」までを「この急激な都市化の進展による森林、丘陵地、田地などの開発は、雨水の貯留効果の減退をもたらしている。この結果、河川流域に降った雨が一時に流出するため、高水流出量の急激な増大による洪水被害が懸念されている。このため、河川流域において急激な開発が進む中での治水対策は、従来主体であった河川整備による治水施設の拡充のみでは対応しきれない状況となってきており、流域内の土地利用計画等と複雑かつ微妙な調整を図りながら総合的な治水対策を進めざるを得ない実情にある。また、このように急激な都市集中による地価の異常高騰のため、さしたる都市整備のないまま簡単に住宅が建てられたり、災害を受けやすい住宅非適地が先に宅地化する傾向もみられた。このような状況変化があまりにも早く、これに対応する河川の整備が追いつけないのが現状である。

治水事業用地の取得についても、右の地価の高騰に地域住民の強固な所有権意識や生活問題が絡んで、年々ますます困難化し、このため必要な用地取得には長時間を要している。河川の用地取得には、右のような公共事業用地取得の一般的困難性のほか、①道路のような日常的利用の便宜や、明白でかつ直接的な開発利益が期待できないため、用地取得が難航しがちであること、②災害直後には、河川改修の必要性が理解されても、災害のない時期や、過去に長期間災害が発生しない場合、又、現在の河川が沿川住民にとって強い関わりをもたないなどの場合などは、改修に伴う用地取得が難航しがちであること、③河川改修は、細切れに実施することが一般的に効果的でないため、必要な一定区間の全用地を取得することが必要となり、このため多くの費用と時間を要すること、などの制約が存在するのである。」に改め、同所二、三行目「平作川流域においても」から改行する。

9  七〇丁裏二行目から五行目までを次のように改める。

控訴人らは、流域の開発等による雨水の流出機構の変化などは、管理者側の事情に属することであり、内在的責任事由として管理者の努力で全て防止し得るものの如く主張するが、これに対しては、法治主義における法制度上、限界があり、かつ行政はオールマイティーではないということを指摘しておかなければならない。すなわち、私有財産制を建前とする憲法体制下においては、法律及びその運用上、公益目的の実現は、私権と調整のうえに立って行われなければならない。土地利用を規制・誘導する法律として、都市計画法をはじめとする多くの法律があり、これらの法律に基づいて、行政庁が許認可権限等を行使するものであるが、許認可権限の行使もこの法律の枠内でしか行えないものである。しかも、現実社会には、多種多様な利害が錯綜し、一つの行政施策にしても、推進派と反対派の対立、個人、法人、公共団体、国などの利害関係など、これらとの調整のなかで行なわれなければならず、河川管理の立場から強権的に、かつ、一方的に効率のみを求めるわけにはいかない。例えば、雨水の流出機構の変化を伴うからといって流域全ての開発等を停止するということは、現法制度上困難であるのみならず、宅地供給も一方において国民の切実な社会的要求の一つである。このような社会的状況は、河川管理者の立場からみれば、全く制御し得ない社会現象であって、いわば抑制不可能な外的要因によって生じたものといわざるを得ない。

10  七三丁表一、二行目「三〇年間に」を削除する。

11  七四丁裏四、五行目「昭和五四年度末において一一一河川で、その延長は約七五〇キロメートル」を「昭和六三年度末において一一七河川で、その延長は約七五六キロメートル」に、同所六行目「約八〇河川」を「約八五河川」に、同所七行目「五三〇」を「五三三」に、同所八行目「改修率」から一一行目「残されている。」までを「改修未着手延長は、昭和六三年度末では要改修延長約五三三キロメートルのうち約二七一キロメートルである。」に、七五丁表二行目「約八〇河川」を「約八五河川」に、七八丁裏八行目「干の川」を「千の川」に、七九丁表五行目「五年間」を「四年間」に、八〇丁表一行目「前記三事業」を「前記三事業(小規模河川改修事業、河川局部改良事業、河川改修事業)」に、八一丁表九、一〇行目「一一一河川」を「一一七河川」に、同所一〇行目「約八〇河川」を「約八五河川」、同所一一行目「五三〇」を「五三三」に、同丁裏八行目「改修率は、」から同所末行「について」までを「改修未着手延長は、前記のとおり、昭和六三年度末で要改修延長約五三三キロメートルのうち、約二七一キロメートルであるが、これについて」に、八二丁表一行目「同五五年」から同所五行目「巨費であり、」までを「同六三年度の試算では約四五〇〇億円にも及ぶ。」に、それぞれ改め、八三丁表九行目「なっている。」と「このように」の間に「なお、被控訴人神奈川県の昭和六三年度一般会計予算は、約一兆三七〇〇億円であり、このうち、公共事業に要する費用は、公共事業費と建設的事業費とを合わせた約一九四〇億円であり、このうち河川費として、約三八〇億円の巨費を投じている。」を挿入する。

12  九三丁裏四行目の次に行を変えて、「以上のように、被控訴人国及び神奈川県は、平作川につき、全川の安全度のバランスを考慮しつつ、川全体からみて流下能力が低く局部的な狭さく部となっている橋梁の改築工事、堤防決壊防止及び流下能力拡大を目的とした護岸整備、流下能力を拡大するための浚渫工事等により改修途上における平作川全体の治水機能を向上させる改修を実施してきたのである。なお、浚渫工事は、堆積土砂取除きにより単に従来の流下能力を復活させるだけでなく、河床削除による流下断面の拡大をもはかるものであり、流下能力を従来以上に高めるために行われるものである。さらに、橋梁の架替工事は、溢水の危険が高い狭さく部の解消となり、河川全体としての安全性の向上に極めて重要な役割を果たすのである。」を加える。

13  一〇二丁表三行目の次に行を変えて、「(3) 被控訴人国及び県が本件水害後に、大規模な河川改修を短期間に実施しているが、これは、平作川流域の住民に再び本件水害のような大規模な被害を受けさせてはならないとする県議会をはじめ、県民の合意が得られたためであり、また、昭和五一年度から国においても、異常な豪雨により激甚な一般災害を受けた河川について他の河川に優先して短期間に改修を行い、当該河川における同規模の洪水による再度災害を防止することによって、民生の安定を図ることを目的として、激甚災害特別緊急事業の制度が創設され、平作川が昭和五一年度から同制度の適用を受けることができたためにほかならない。

(4) 控訴人らは河川改修計画の策定そのものが遅きに失したものであると主張する。しかし、戦後しばらくの間、逼迫した経済事情のもとでは、治水機能を高めるための改修工事を推進することは困難であり、とりあえず被災した河川施設を被災前の原状機能に戻すという災害復旧工事を主体とせざるを得ない状況にあった。昭和三三年に狩野川台風、同三四年には伊勢湾台風と大型台風の直撃による激甚な災害が数年発生したことに伴い、同三五年には治山治水緊急措置法が制定された。これに基づいて治水事業一〇箇年計画が閣議決定され、本格的な改修事業の推進の途が開かれた。神奈川県でも、昭和三六年六月には、梅雨前線豪雨が発生し、大岡川、境川、田越川、柏尾川等が氾濫し、県下の浸水被害は、三万九一一七戸に達した。そのうち特に都市化による人口資産の集中が著しい横浜市、川崎市においては、浸水被害一万六〇二六戸にも達したが、横須賀市全体では四一〇九戸であって、このうち平作川流域においては三九六戸であった。この昭和三六年災害を契機に、昭和三九年度までに、大岡川はじめ県内河川についても河川改修に着手した。

平作川については、既述のとおり、戦前に一応の整備がなされており、また、戦後から災害復旧工事、堤防の維持保全のための護岸工事が着実に実施されてきたが、流域の一部について土地利用状況が都市化へと動きをみせはじめていたこと及び昭和三六年六月の集中豪雨により被害が発生したことに鑑みて、計画的に改修工事が進められることになり、前記のとおり昭和三九年河川局部改良事業が着手される一方、同年に河川改修計画が策定されるに至った。以上のような背景の下に平作川改修計画は策定実施されたのであり、河川管理における財政的、時間的、技術的及び社会的制約に鑑みれば、その計画策定時期について不合理な点はない。」を加え、同所四行目「(3)」を「(5)」に改める。

14  一二〇丁表一〇行目、同丁裏九行目、一二一丁裏二行目、同所六行目、一二二丁表一行目、五行目、一〇行目の「原告」を「第一審原告」にいずれも改め、同所一〇行目「(別紙原告目録(一)36)」を削除する。

15  一二二丁裏五行目の次に行を変えて、「(二) 被害届による被害額の立証

控訴人らは、被害届により被害額の立証をしようとする。控訴人らの損害賠償請求に係る被害の立証を行おうとするものである以上、少なくとも、財産上の被害についてはその被害金額を可能な限り明示する必要があるにもかかわらず、右の被害届ではこれが明らかとはならない。家財については家財の品目、数量、購入した時期などが何ら記載されておらず、現に保有していた家財のうち、およそ何割程度の家財が被害を受けたかをいっているにすぎず、具体的な被害額を知り得る内容を記載していない。自動車、自転車の類についても、使用不能となったものを含め、被害金額はもとよりその種類、購入した時期などが記載されておらず、また、修理したものについてはその記載の被害金額が領収書などの種類により容易に立証可能であるはずのものである。建物、造作については、単に畳何枚などと量的に記載しているに過ぎず、畳については購入した時期やその質などが何ら記載されていない。また、施設等の修復については、施設の種類が不明であるとともに、そこに記載されている金額は単なる主張の域を出ず、いまだ立証されたとはいえない。

なお、包括的請求の内容をなす精神的苦痛にかかる慰謝料についても、金銭による損害賠償を請求する以上、控訴人ら個人の精神的苦痛の面での被害金額は明示しうるはずである。」を加え、同所六行目「(二)」を「(三)」に改める。

16  一二三丁表五行目の次に行を変え、「(四) 第三者の財産に係る損害賠償請求について

控訴人らの中には家族以外の第三者の所有に係る財産についての損害賠償請求をしている例がみられる。控訴人らの住所が、アパート住い、借家住いであることが明らかであるにもかかわらず、被害届によれば、建物・造作についての被害をかかげている者があり、失当であることは明らかである。

(五) 損害賠償請求の過大性について

控訴人らは、床上浸水九〇センチメートル以上のものについては一五〇万円、床上浸水九〇センチメートル未満のものについては一〇〇万円の損害賠償請求をしている。しかし、前述のとおり、控訴人らは個々の被害毎の被害金額を明示せず、単に床上浸水高のみで被害金額を計上しているのであるが、例えば、被害届から知り得る被害程度の例を挙げれば、控訴人岩村文雄について、

①  水に浸かった家財はほとんど修理・洗浄して使用した。

②  自動車・自転車類、建物造作の被害状況、施設等の修復については被害届に記載されていない。

③  水害当日にはすでに自宅に戻っている。

等の事実からして、控訴人岩村文雄についてその主張する被害額があったとは到底認められない。同程度の記載の被害届は他にも多くみられるのであって、一部控訴人らの被害届に記載された内容からみて、その財産上の被害とするものに非財産的被害を勘案したとしても、請求金額の一五〇万円あるいは一〇〇万円は過大なものであることがうかがわれる。」を加え、同所六行目「(三)」を「(六)」に改める。

17  一二五丁表三行目から同丁裏八行目までを削除し、同所九行目「(二)」を「(一)」に、一〇行目「その形成について」を「その形成並びに吉井川について」に改め、一二七丁表三行目の次に行を変えて、「 ところで、前記のとおり、平作川下流流域の水田の宅地化が急激に進むとともに、吉井川は本来の潅漑用水路としての機能を次第に失い、おおむね雨水及び汚水(家庭用雑排水)の排水路として利用されるようになった。また、吉井川は、そのほとんどの部分が舟倉町を流れ、その河口部分で久比里一丁目を経て平作川に流入する全長一〇七〇メートルの開渠の水路であって、その流域の地形はきわめて低い標高のため勾配がほとんどなく、平作川との合流点では潮の干潮の影響を受ける感潮河川であり、その流下能力は毎秒二ないし三立方メートルであった。」を加える。

18  一二八丁表三行目の次に行を変えて次のように加える。

(二) 吉井川及び甲・乙・丙水路の法的性格

(1)  公共下水道該当性

下水道法二条三号によれば、公共下水道とは、「主として市街地における下水を排除し、又は処理するために地方公共団体が管理する下水道で、終末処理場(同条六号)を有するもの又は流域下水道(同条四号)に接続するものであり、かつ、汚水を排除すべき排水施設の相当部分が暗渠である構造のものをいう。」と定義されている。右の公共下水道の定義を吉井川及び甲・乙・丙水路に当てはめてみると、いずれも公共下水道には該当しないことが明らかである。すなわち、吉井川及び乙水路はすべて開渠であり、丙水路も大部分が開渠であって、将来公共下水道とすべく設置された甲水路のみが暗渠である。又、右の四水路は、いずれも本件水害当時終末処理場を有していなかったし、流域下水道に接続もしていなかったのである。したがって、右四水路は、下水道法上の公共下水道に該当しないことは明白である。

(2)  下水道法上の下水道該当性

下水道とは「下水(同条一号)を排除するために設けられた排水管、排水渠その他排水施設(潅漑排水施設を除く)、これに接続して下水を処理をするために設けられる処理施設(屎尿浄化槽を除く)又はこれらの施設を補完するために設けられるポンプ施設その他の施設の総体をいう。」と定義されている。吉井川は、前記のとおり、潅漑用水路として利用された自然発生的な小河川であるから、下水を排除するために設けられた排水管、排水渠には明らかに該当しない。甲水路は、長銀・辰巳団地の雨水、汚水を排除するために設けられた暗渠の水路であるから下水道法上の下水道に該当するものといえる。乙水路は、潅漑用水路としての性格と雨水の排水路としての性格を併せ持ったものであるが、設置当初は雨水の排水路としての機能よりも潅漑用水路としての機能に重点を置いて設置されたものであるから、下水道には該当しないものと考えられる。丙水路は、池田団地の雨水、汚水を排除するために在来の潅漑用水路を整備した水路であるから厳格な意味での下水道法上の下水道に該当するか否かは疑義のあるところではあるが、一応下水道と称してよいものと考えられる。

以上のとおり、四水路のうち下水道法上明確に下水道と呼べるものは甲水路のみであり、吉井川に至っては小河川として捉えるのが相当である。

吉井川及び甲・乙・丙水路は、昭和四八年度の被控訴人横須賀市の下水道事業において、吉井川が下町処理区久里浜第一地区舟倉排水区の雨水第二幹線、乙水路が同じく舟倉排水区の雨水第三幹線、丙水路は同じく池田排水区の雨水第一幹線とされ、甲水路については、同水路が雨水・汚水を分離していないので、別個に汚水用幹線を設置することが予定されており、いずれも計画完成後は下水道の雨水幹線として使用されることが予定されていた。しかし、吉井川及び甲・乙・丙水路が下水道事業計画上将来雨水幹線として使用されることが予定されていたからといって、事業認可があった時から当然に公共下水道もしくは下水道となるものではない。下水道法四条一項の事業計画に対する建設大臣の認可は事業計画実施の要件であり、事業計画実施に先行するものであるから、事業計画の認可を受けたからといって、事業計画上雨水幹線として予定されている既存の水路が計画完了前に公共下水道もしくは下水道となるものではない。

(三) 下水道等の水路に対する管理責任について

(1)  過渡的安全性論の適用範囲

昭和五九年一月二六日最高裁判決は、河川管理の瑕疵に関していわゆる過渡的安全性論を判示した。この過渡的安全性論の根拠は、河川管理が道路等とは異なり、もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包している河川を対象として開始されるのが通常であって、河川の通常備えるべき安全性の確保は時間的、財政的、技術的制約のもとに管理開始後において治水事業を行なうことによって逐次達成されていくことが当初から予定されているものであり、一方予測が極めて困難でかつ容易に制御し難い降雨による流水という自然現象を対象とするものであるため、道路におけるような一時閉鎖、通行止めなどといった簡易な緊急危険回避手段を採ることができないということにある。したがって、過渡的安全性論の適用基準は、自然公物か人口公物かといった管理対象物の形式的な区別(このような区別をすること自体、極めて困難である。)ではなく、管理の対象が右に述べたような本質及びこれに付随する安全性確保に対する諸制約が存在するか否かによるべきである。

(2)  吉井川、甲・乙・丙水路への過渡的安全性論の適用

吉井川、甲・乙・丙水路の形成は、前記(一)記載のとおりであるが、本件水害当時その供用開始の告示はいまだなされておらず、甲水路を除く吉井川、乙・丙水路は、周辺土地の宅地化により潅漑用水路としての機能がほとんどなくなり、雨水・汚水の排水路としての機能がそのほとんどとなったために、被控訴人横須賀市が事実上管理するに至ったものである。そして、甲水路を除く吉井川、乙・丙水路は、被控訴人横須賀市が事実上の管理を行なうに至った時点ですでに存在していたものであり、その安全性の確保は管理開始後において逐次達成していく以外になかったのである。そして、その安全性の確保については、後記のような時間的、財政的、技術的制約があり、通常予測し、かつ回避しうるあらゆる水害を未然に防止するに足りる治水施設を完備するには相応の期間を必要としたのである。すなわち、被控訴人横須賀市の管理する吉井川、甲・乙・丙水路の設置管理の瑕疵についても河川に対するのと同様の基準によりその瑕疵の存否を判断するべきである。

(3)  下水道事業計画の実施に伴う制約

ア 時間的制約

下水道事業計画を立案し、認可を受け、施工完成するまでには次のような過程を必要とするのが通例である。

① 事業計画をすべきか否かの調査期間

② 事業計画立案のための資料収集調査期間

③ 事業計画立案過程

④ 事業計画認可申請(申請までの事前折衝を含む。)から認可までの期間

⑤ 事業計画実施のための用地買収等の建設準備期間

⑥ 事業計画に基づく建設工事期間

⑦ 工事完成後の試用期間

これを舟倉地区を含む久里浜一帯の下水道整備についてみるに、被控訴人横須賀市は、昭和四三年から調査を始め、昭和四五年に至ってポンプ場施設を設置する方針を固め、昭和四八年三月三一日事業認可を得て、昭和四八年に用地買収を完了し、引き続き地質調査、実施設計等を得て昭和五〇年度から建設工事を行い、昭和五二年五月にポンプ場の雨水ポンプの運転を開始したものである。その後、昭和五三年度には事業計画をさらに変更し、舟倉町に舟倉第二ポンプ場の建設を行ったが、同ポンプ場が完成し運転を開始したのは昭和五八年六月であた、舟倉地区を含む久里浜第一地区下水道事業計画の完成をみたのは昭和六〇年度であった。すなわち、昭和四三年度の調査開始から数えて事業計画完了に至るまでは一七年の歳月を要したのであるが、それだけの時間的経過を要したとしても、その事業規模から考えて決して長すぎたとはいえず、合理的期間の範囲内なのである。

イ 財政的制約

被控訴人横須賀市は、久里浜第一地区下水道事業計画につき、昭和四八年三月三一日建設大臣の認可を受けた以降、昭和六〇年までに事業費として八一億七六七四万円を支出し、さらに別途河川費として六億七五〇七万五〇〇〇円を支出し、その総額は実に八八億五一八一万五〇〇〇円に達する。右金額は神奈川県が本件水害発生後に平作川の改修整備のために支出した金額総額九八億五四〇〇万円と比較しても大差がないもので、市単位の負担としては莫大な金額といえるものである。

このように一口に下水道の整備といっても河川改修に比肩する程の莫大な費用を要するものであり、被控訴人横須賀市では、後記のとおり、久里浜第一地区の下水道以外にもこれと並行して一二の地区の下水道事業をも実施しているのである。

下水道事業計画を実施するには河川改修に比肩する程の莫大な費用を必要とするから、本質的には議会が市民生活上の他の諸要求、例えば学校整備、道路整備、社会福祉等その他の予算支出を伴う諸施策との調整を図りつつ、その配分を決定する予算の下で、過去に発生した水害の規模、頻度、発生原因、被害の性質等の他、降雨状況、流域の自然的条件及び開発その他土地利用状況、各水路の安全度の均衡等の諸事情を総合勘案し、それぞれの水路についての改修、整備の必要性、緊急性を比較しつつ、その程度の高いものから逐次これを実施していくしかないという制約がある。

ウ 技術的制約

下水道事業は、必然的に放流先の処理能力による制約や下水道事業の対象となる地域の形状や標高、後背地の地形等自然的条件や、水路流域の人家の密集度や地価の高騰による施設建設用地や水路整備用地の取得の困難性といった社会的条件による技術的制約を受けるものである。

本件水害発生地域は、前記のとおり、もともと標高が極めて低い水田地帯で、しかも後背地が丘陵地帯であるため降雨時には冠水することがしばしばあって、冠水すると数日は水が引かず、舟によって通行するような地域であった。ところが、舟倉町については、昭和三八年ころから、久比里一丁目については同四三年ころから、水田の宅地化が急激に進み、水田はほとんどなくなり、同時に水路も埋立てられていった。水田が宅地化されることにより遊水池としての機能が失われ、かわって雨水を宅地化した地域より他へ排水する必要が生じたのであるが、本来的に本件水害発生地域は標高が低く、したがって、そこに流れる水路も勾配がほとんどなかったため排水ポンプによる強制排水以外には採るべき方法がなかった。

海への直接放流は新たに巨大な水路を開設する必要があり、費用的な面から到底実現可能な方法ではなかったから、残された放流先は平作川以外にない。ところが、平作川の流下能力はあまり余力のない状態であり、かつ平作川は潮の干満の影響を受ける感潮河川であるところ、吉井川、乙・丙水路の平作川への放流地点はいずれも河口に近い所であるところから、これらの水路もまた潮の影響を受けることとなる。

また、吉井川、乙・丙水路の下流部分は前記のとおり、その流域の地形上ほとんど勾配がなく、かつ標高が極めて低かったから平作川の水位が高くなると、本件水害発生地域よりも平作川の水位の方が高くなり、むしろ平作川の水が右の三水路に逆流してくる関係になるから、ただ単に右三水路を整備してその流下能力を高めるだけでは地域内の雨水を平作川に排水することは不可能である。さらに、排水ポンプ等によって地域内の雨水をいったんは平作川に放出したとしても、平作川の流下能力が流量に比して不足していれば、平作川の水は国道を超えて地域内に侵入してくることは本件水害時の状況から明らかであるから、本件水害時のような降雨の場合には右の三水路のみを整備するだけでは本件のような水害の発生を防止することはできない。したがって、右排水ポンプの設置にしても放流先である平作川の流下能力が高まってからでないと意味をなさないという技術的な制約がある。

(四) 下水道事業計画と過渡的安全性

本件水害発生地域のように水田が埋め立てられ急激に宅地化された地域にあっては、それが大規模な計画的な造成による宅地化でなく小規模の個別的な埋め立てが逐次行われた結果によるものである場合には、従来潅漑用水路であったものが下水道としての機能を担うのは必然的な事象である。しかし、潅漑用水路の事実上の下水道化は、もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているものであるが、法的に水田の宅地化を規制することができなかった以上、潅漑用水路に下水道としての機能を求めることもやむをえない。このようにして、下水道として試用されるに至った水路の安全性の確保は管理開始後逐次水路を拡幅、掘削し、護岸工事を行い、流路を整え、排水ポンプを設置するなどして達成されていくことが当初から予定されているのである。

そして、下水道整備には前記の諸制約が内在するため、下水道としての機能を担っているすべての水路について通常予測し、かつ、回避し得るあらゆる水害を未然に防止するに足る施設を完備するには相応の期間を必要とし、未整備水路又は整備不十分な水路の安全性としては前記諸制約のもとで一般に施行されてきた下水道事業による水路の整備に対応するいわば過渡的安全性をもって足りるとせざるを得ない。

そして、我が国における下水道事業が、前記の諸制約によっていまだ通常予測される災害に対応する安全性を備えるに至っていない現段階においては、当該水路の管理についての瑕疵の有無は過去に発生した水害の規模、発生の頻度、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況、土地の歴史的背景その他の社会的条件、整備を必要とする緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮してなされるべきである。

19  一二八丁表四行目「(三)」を「2」に、同所五行目「(1)」を「(一)」に、一三三丁表六行目「(2)」を「(二)」に改める。

20  一三六丁裏一〇行目「(四)」を「3」に、一三七丁表一行目「(1)」を「(一)」に、同丁裏一行目の次に行を変えて、「被控訴人横須賀市は、吉井川の流下能力を維持し、かつ安全性を増すべく、昭和三五年三月から既設水門の流れを円滑にするための排水整備工事、塵介取除用格子の取付け、門扉改良のための水門改良工事、清掃工事、護岸石積工事、土砂浚渫工事等を実施した。」を加え、同所二行目「(2)」を「(二)」に改める。

21  一四〇丁表八行目「(3)」を「(三)」に改め、同丁裏三行目の次に行を変えて次のように加える。

(四) 事業計画実施中の受忍限度

本件水害発生地域はすでに述べたとおり、もともと水田にするために埋め立てられた低湿地帯であり、そこには潅漑用水路が縦横に走っていた。標高が極めて低く、しかも後背地が丘陵地帯で、前面には平作川の堤防を兼ねた国道があり、両者により扼された形となっているため雨水の逃げ場がなく、降雨時には冠水することがしばしばであって、冠水すると水が引かない宅地には不向きな土地であった。このように本件水害発生地域は、それ自体が本来的には平作川の遊水池としての機能を有していたものであり地形的にも宅地には不向きな土地であった。ところが、本件水害発生地域のうち、舟倉町については昭和三八年ころより、久比里一丁目については同四三年ころより水田の宅地化が急激に進み、水田はほとんどなくなり同時に水路も埋め立てられていったのである。しかしながら、本件水害発生地域の宅地化に対しては、被控訴人横須賀市はこれを規制する有効な手段を持たなかったのである。このように、宅地としては不向きな土地を利用して、全体的な計画のない個別の宅地造成を行って慢性的な浸水地区に家屋を建築したのであるから、建築者は浸水のあることを予測し、あるいは予測し得たのにこれをしないで建築したというべきであるし(ほとんどの家屋が建築に際して盛土をしている事実は建築者が浸水被害の発生を予測していたことを推認させる。)、その建築に居住する者もまた浸水のあることを予測したか、あるいは予測し得るのにこれをしないで居住を開始したものということができる。

そうであるならば、このような特殊な土地に家屋を建築し居住する者について、浸水被害の受忍限度を定めるにあたっては通常の自然的条件を持つ宅地よりも受忍限度の範囲を広く設定すべきであることは当然である。

(五) 結果回避義務及び結果回避可能性について

公の営造物の設置管理の瑕疵の存否に際しては、結果回避義務及び結果回避の可能性の有無もその判断対象となると解される。

(1)  結果回避義務

被控訴人横須賀市は、昭和四八年度下水道事業計画において、吉井川及び甲・乙・丙水路をいずれも将来の雨水幹線として右下水道事業計画に組み入れ、本件水害時には右計画を実施中であった。右計画においては、下水道の計画基準降雨量を建設省の指導(建設省監修「下水道施設設計指針と解説」)に従い、E級河川の技術水準である確率年一〇年と同一の時間雨量六〇ミリメートルに設定した。この時間雨量六〇ミリメートルの設定は合理的妥当性を有するものであって、下水道の排水機能としては、原則的にその範囲での排水機能があれば足り、右基準降雨量を超えるような強い降雨に対しては通常期待されるべき下水道の排水機能を超えるものとして、浸水被害等の結果回避義務を管理者に負わせることはできない。本件水害時の最高時間雨量は六八ミリメートルを超えるものであり、午前二時から同八時までの六時間に226.7ミリメートルもの降雨があったもので、右降雨量は通常期待されるべき下水道の排水機能の範囲を超えるものであるから、被控訴人横須賀市には結果回避義務はない。

(2)  結果回避可能性

吉井川及び甲・乙・丙水路の排水能力の向上は、財政的負担の面からも平作川の流下能力という技術的な制約の上からも、被控訴人横須賀市独自の行為によってこれを実現し、本件水害を未然に防止することは実際上不可能であった。また、仮に本件水害当時、被控訴人横須賀市が排水ポンプを設置し、吉井川等の水を平作川へ強制排水する設備を備えていたとしても、本件水害時のように平作川の当時の流下能力以上の降雨があった場合には右のような設備は何ら役に立たなかった。したがって、本件水害における結果回避可能性も存在しない。

22  一四〇丁裏四行目「(4)」を「(六)」に改め、一四一丁表八行目「2」を「4」に、一四三丁表九行目「3」を「5」に改め、同所一〇行目から一四四丁表二行目までを削除する。

23  一四四丁表三行目「(二)」を「(一)」に、一四五丁表三行目「理解し得るところである。」の後に「しかも宅地化の初期の段階では舟倉町及び久比里一丁目に建築された家屋は比較的浸水の危険の少ない条件の良い場所を選んで建築されたであろうことを考慮すると、何人といえども下水道整備の必要性は追浜地区の方がはるかに差し迫っていたことを首肯するであろう。」を加え、同所四行目から同丁裏四行目までを削除する。

24  一四四丁裏四行目の次に行を変えて次のように加える。

(二) 下水道事業計画実施時期の合理的妥当性

控訴人らは下水道事業計画の実施時期が不当であると主張する。しかし、本件水害発生地域は、昭和四〇年ころから水田の宅地化が急激にすすんだのであり、舟倉町全体の人口を国勢調査でみると、昭和四〇年に前述のように一七一三人であったのが、同四五年に二四七五人、同五〇年に三一三六人と急増し、舟倉町及び久比里一丁目における建物の建築状況を昭和三一年以降年度別に調査すると、舟倉町においては、同三〇年以前一一三棟に過ぎなかったものが、同三五年には一四九棟、同四〇年には二九〇棟、同四五年には五五一棟、同四八年には七五八棟と急激に増加してきた。被控訴人横須賀市は、まず、前記のようにまず追浜地区の下水道の整備を始めたが、舟倉及び久比里地区についても、このような宅地化に対応すべく、昭和四三年から調査を開始し、昭和四五年に至ってポンプ場施設を設置する方針を固め、昭和四八年三月三一日に浸水対策を含めた下水道事業計画の認可を得た。

ところで、右の計画は、排水ポンプによる本件水害発生地域及びその後背地の雨水を平作川に放出する計画であり、この方法により排水する場合には、平作川の流下能力による制約を受けることになるが、舟倉町の住民が急増したために平作川の工事完成を待つことができず、実行に着手したものである。

以上のとおり、この下水道事業計画は、その必要性の生じた時期及び前記の時間的制約から考え、極めて妥当な時間的範囲内において計画され、実施されたものといえる。

(三) 下水道事業計画の内容の合理的妥当性

控訴人らは、被控訴人横須賀市の久里浜第一地区に対する下水道事業計画が基準降雨量を六〇ミリメートルとして計画されていることにつき、被控訴人神奈川県が当該地域につき昭和三九年に策定した河川改修計画では時間雨量七〇ミリメートルが想定され、同四六年度の改修計画においては時間雨量93.2ミリメートルが基準とされていることからも合理的妥当性を欠くものと非難している。

しかし、右控訴人らの主張は河川と下水道の機能的な差異や危険度の違いを無視した見当違いな議論と言わざるをえない。河川はその流量の巨大さから破壊力は下水道とは比較にならないものがあり、一度決壊すれば家屋の流失や人命の損失等大きな被害をもたらすことが予想されるが、下水道は仮に溢水したとしても流域に浸水する等の被害を発生するにとどまるのが通例である。このように、流量及び流速によって河川の持つ破壊力には差異があるから、河川改修に当たってはその流域面積や地形から河川をA級からE級までの五段階に分類し、各ランクに従って基準降雨量を設定するのであって、同一地域にあってもその主要区間と支流では異なる基準降雨量により改修が行われることも当然あり得ることなのである。以上のような考え方は、下水道の整備計画の立案に際しても妥当するものであって、下水道の整備に当たっては、E級河川の技術水準である確率年一〇年よりもさらに低い基準である五年ないし一〇年を確率年とするよう指導されている。被控訴人横須賀市では、久里浜第一地区の下水道事業計画においては確率年を下水道整備としては最大の一〇年として当該地域の過去の降雨量に基づき算出した確率降雨強度時間雨量六〇ミリメートルを基準降雨量としたものである。よって、被控訴人横須賀市が基準降雨量を六〇ミリメートルをして事業計画を実施したことは極めて合理的かつ妥当な選択であった。

25  一四五丁表五行目「(三)」を「(四)」に、一四六丁裏七行目「(四)」を「(五)」に改め、一四七丁表六行目から同丁裏一行目までを削除する。

26  一四七丁裏二行目の次に行を変えて、「1 被控訴人国、神奈川県の主張に対する反論

(一)  総論」を加え、同所三行目「1」を「(1)」に改め、同所九行目から一四八丁裏三行目までを次のように改める。

被控訴人らの自然公物論は次の二点から構成される。第一は、河川自然発生説ないし自然状態説ともいうべきものであって、河川が公用開始のための特別な行為なくして公共の用に供される自然発生的な公共用物とする点であり、第二は、河川はもともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているとした点であり、河川危険内在説ということができる。

第一の点であるが、河川は、当初は自然発生的に生じ、人類が自然の状態のままで利用していたであろうことは容易に想像できる。しかし、社会の進展に伴いさまざまな必要性から、治水事業が発達するに至り、河川に人工の手を加えざるを得ないようになり、現在では、人工の手を加えられていない河川など、どこにもない。すなわち、河川は、本来自然発生的なものとして利用されたかもしれないが、現在では人の手を加えた人工公物としての性格が強くなっているのであって、ことさら太古時代の原始河川を持ち出すことは不自然である。むしろ、各河川の人工の度合等、その個性に着目した危険性の有無が論じられるべきである。

第二の河川危険内在説についてみると、水害という現象はすべてが自然的原因によるものであるとはいえない。すなわち、洪水は、降雨という気象条件だけではなく、河川及び流域の地形や状況、海水の影響等の自然的条件の外に、土地開発という社会的条件によっても大きく左右されるのである。昭和四〇年代後半から、いわゆる都市水害と呼ばれる水害が、都市や都市周辺部において目立つようになってきている。それは、宅地、舗装道路、排水設備の整備により、土地の保水力は小さくなり、流出率が増大するのが原因であるが、このような人為的な要素を無視してはならない。

これらのことを考えると、河川のみが自然発生的で自然状態のまま利用された物であるから、危険が内在していると考えるのは誤っており、およそ住民が利用しそれに接近する可能性のある営造物は自然的条件のみならず社会的条件も考慮し、たえずその安全性が確保されていなければならない。

27  一四九丁裏九行目「2」を「(2)」に改め、一五〇丁裏一行目「生ずることになる。」の後に「すなわち、河川改修にどの程度の予算を投入し、他の諸要求とのバランスをどのように図ったらよいか、というような判断は、議会のみがなしうるところであって、裁判所がなすべきことではない。仮に裁判所がなしうるところとしても、国民生活における諸要求に関する資料すべてに目を通し、河川改修に関する適正予算を判断せざるをえないことになるが、それは事実上不可能である。」を加える。

28  一五二丁裏四行目「3」を「(3)」に改め、一五三丁表五行目の次に行を変えて、「 のみならず、河川改修に長時間かかることはそのとおりとしても、改修を要すべき合理的な期間について、裁判所が判断すべきものとするならば、裁判所は行政期間と何ら変わるところがない存在と化してしまう。なぜならば、河川改修に要する合理的な期間は、投入予算の多寡に左右されることになり、そうなれば必然的に予算配分の当否を判断せざるを得ないことになり、行政と同じことを繰り返す結果になるからである。」を加える。

29  一五三丁表六行目「4」を「(4)」に改め、同丁裏二行目の次に行を変えて次のように加える。

被控訴人国及び神奈川県が主張する社会的制約のうち、地価の高騰等による治水用地の取得難については予算投入額の増大により解消できるのであるから、予算制約論で論ずれば足りる。また、地域の開発による雨水の流出機構の変化、地価の高騰は、開発の許認可権限を有する管理者側の事情に属することである。したがって、自らの権限に属する事項について、あたかも外在的原因であるかの如く、免責事由とすることはできない。

(二) 平作川の設置管理の瑕疵

(1)  平作川の人工公物性

本件水害発生地帯一帯は、正保・元禄年代には入江であったが、天保年間に三本の川に変った。万治年間に入江が開発されて田となり、長さ八町に及ぶ防波堤と堤防が設けられた。大正年代に、蛇行型を直線状の一本の河川とし、その位置も変えられた。戦時中、平作川右岸に沿って国鉄横須賀線が、左岸に国道が設けられるようになった。すなわち平作川の左岸は、国道という人工公物が護岸を兼ねるようになった。

以上の事実によれば、仮に自然公物と人工公物の区分を認めるとしても、平作川は人工公物というべきである。それは入江を開発してそこに作られた河川であり、国道が護岸をなしているからである。

(2)  平作川の治水事業について

被控訴人国及び神奈川県は、平作川に対する予算投入額は、他の河川と比べて遜色ないと主張する。しかし、単に数値だけを比較をしても無意味である。すなわち、本件は、営造物の設置管理の瑕疵の有無が問われているのであって、予算の配分の当否が問われているのではない。「瑕疵論」との関係で論じなければならないのは、予算がいくら使われたかではなく、河川の安全性を高める関係で具体的にそれがどのように使用されたかが問題とされなければならないのである。

被控訴人国及び神奈川県が、投入予算をどのような改修工事に費やしてきたか具体的に検討してみる。例えば、昭和四一年から実施した工事の中身を検討してみると、護岸工事一つとっても流下能力を高める工事だったのか否か不明であり、その費用とても、わずかで、多少多いと思われるのは昭和四四年度における三〇〇〇万円、同四五年度の八三一五万円、同四六年度の六八六七万円、同四七年度の一億三〇〇万円の工事くらいのものであるが、これとても全て橋梁架替工事によるものである。河川の安全性を高めるための工事には各年度において数千万円が費やされているにすぎない。

すなわち、河川の安全性を高める最大の要素である流下能力に影響する意味での河川改修率は、さほど大きなものではない。

(3)  改修計画の時期について

平作川は、昭和三三年九月の狩野川台風及び同三六年六月の集中豪雨により二度にわたって溢水しているのに、改修計画が建てられたのは昭和三九年になってからであり、最初の溢水から六年も経過している。しかも、被控訴人国及び神奈川県は、本件水害について、その降雨量も溢水も十分予見できたはずであるが、昭和三三年から一六年も経過しているのであるから、改修工事は遅延又は放置されたものといわなければならない。

(4)  改修工事の不備

昭和三九年と同四六年における平作川の流下能力を対比すると別表(A)のようになり、本件水害時の平作川の流下能力を昭和四六年当時とほぼ同一であると仮定することができる。また、本件水害当時の五郎橋付近で毎秒約一〇〇立方メートル、梅田橋付近で約八〇立方メートルであった。そして、昭和三九年に年超過確率五年の降雨により算出した計画高水流量は、河口において毎秒二五五立方メートル、河口から二三〇〇メートル上流の地点で毎秒二二〇立方メートルである。

これによれば、次の事実が明らかになる。

第一に、平作川の流下能力は、昭和三九年から本件水害発生時までの一〇年の間、昭和三九年における年超過確率五年の降雨量に基づいて計算した計画高水流量と比較してみてもはるかに及ばない状態であった。

第二に、右一〇年間に、被控訴人国及び神奈川県が、平作川の流下能力を高めるために、少なくとも河口から二三〇〇メートル上流の地点より下流については、ほとんど努力していなかったといえる。昭和三九年の年超過確率五年の計算からいえば、河口から二三〇〇メートル上流の地点で毎秒二二〇立方メートルなければ溢水するのに、現実の平作川は河口から二四〇〇メートル上流の地点で、わずかに毎秒77.1立方メートルしかなかったからである。そもそも年超過確率五年といえば、いつその降雨があってもおかしくないのであるから、平作川は、いつ溢水してもおかしくないような状態のまま、昭和三九から一〇年間も放置されていたのである。仮に、昭和三六年以降、平作川が溢水していないとしても、それはたまたま年超過確率五年程度の降雨がなかったか、吉井川等の水路に逆流していたというだけによるものであるから、河川管理の瑕疵の存否に対する判断に当たっては考慮してはならない。

第三に、被控訴人神奈川県は、昭和四七年ころ、平作川の流下能力につき、実施計画程度の流下能力を備える必要性を認識していたものである。被控訴人神奈川県は、昭和四七年一月一〇日開催の建設行政県市連絡会議において、「平作川の計画流量は黄金橋で毎秒立方八〇メートル、五郎橋で毎秒立方一九〇メートル、河口において毎秒三〇〇立方メートルであり、五郎橋より下流部は一応既成と考えている。」と回答している。被控訴人神奈川県の回答にある五郎橋より下流部の平作川の流下能力は、昭和四六年度河道計画案における実施計画か、少なくとも昭和三九年の年超過確率五年の計画高水流量であると考えられるが、前記のとおり、本件水害時においても平作川の流下能力が、それよりはるかに劣っていたにもかかわらず、あえて「一応既成と考えている。」と回答したのは、行政側においても、昭和四七年には、実施計画か、少なくとも昭和三九年計画程度の流下能力を備える必要があると認識していたからにほかならない。

(5)  平作川の水害発生の可能性が特に顕著と認められる事由

平作川の流下能力の不足、A・B間の堤防が他の部分に比べて低いこと、パラペットに開口部分があること、夫婦橋直下の土砂、小屋、舟着場があることなどの事情のほか、次のような事情があるから、平作川を早期に改修する必要があった。

ア 都市河川化と被害の広範性

平作川下流流域の控訴人ら居住地域は、終戦時ころより人家が増え始め、特に昭和四〇年ころから、平作川流域に宅地開発が進められるに従い人口が急増し、平作川は都市河川の性格を有するに至り、ひとたび水害が生ずれば、広範で甚大な被害をもたらすおそれを生ずるようになった。

イ 水害発生要因の増大

平作川流域においては、昭和三〇年代後半の久里浜工業団地の造成を始めとして、特に昭和四〇年代以降相次いで宅地開発が進められ、田畑、溜池の埋立て、丘陵地の切崩し等により、土地の保水機能が激減したため、水害が生じる危険性は著しく高まった。

ウ 水害発生の現実化

控訴人らの居住地域は、従来から低湿地帯であったが、人家が増えた後も道路より建物敷地の標高が低い状態であり、しかも舟倉地区は標高の高い国道と京浜急行電鉄の鉄道敷とに囲まれ、さらに昭和三〇年代後半に開発が進められるようになってからは、平作川の流下能力では流出雨量を受け入れきれなくなったため、平作川が溢水しないときでも、平作川の影響を受けた吉井川、乙・丙水路の流下が阻害されてそこから溢水し、そのため毎年のように浸水被害を受ける水害常襲地帯となっていた。まさに水害発生の危険性は現実化していたのである。

エ 水害対策の必要性と社会的関心

右のような状況のため、控訴人ら居住地域は、既に昭和三八年の横須賀市地域防災計画で「溢水氾濫の危険がある」として、「水害危険区域の設定」を受けるに至ったし、平作川の早期改修の必要性が、新聞紙上でも横須賀市議会でも取り上げられるなど、社会的関心を集めるようになっていた。すなわち、平作川に水害発生の危険があり、早期改修が必要であることは、地域住民の主観的要望を超えて、社会的要請になっていたのである。

30  一五三丁裏三行目から一五四丁表二行目までを削除し、同所三行目「7」を「(三)」に改める。

31  一五四丁裏一〇行目の次に行を変えて次のように加える。

2 被控訴人横須賀市の主張に対する反論

(一)  総論

(1) 吉井川の沿革

被控訴人横須賀市は、吉井川が「自然発生的な小河川」で「潅漑用水路」であったことを強調するが、控訴人らの居住地域は、もともとは平作川河口に広がる入江部分で、万治年間に水田を開くために埋め立てられ、さらに第二次世界大戦終了の前後から宅地化のための埋立てが進み、吉井川の川幅も著しく狭くなり、機能も雨水、汚水の排水路に変化してきたものである。このように、吉井川とその周辺には、長い「人工」の歴史があるのであって、被控訴人横須賀市がいまさら「自然発生的」といっても、何らの意味もない。

(2) 下水道管理責任

ア 時間的制約

吉井川・乙・丙水路は、昭和三三年の平作川氾濫の時は勿論、平作川が溢れなかったときも、しばしば溢水を繰り返してきたのであるから、一〇数年を経過してもなお時間的制約を云々することは、行政の怠慢を糊塗する議論でしかない。

イ 財政的制約

仮に河川がその形成の始めにおいて自然であったとしても、国又は地方公共団体の管理下にある場合には、道路等他の営造物と区別する根拠に乏しく、財政的制約を法律判断に持ち込むことは、予算の配分の当否等の判断を検討せざるを得ないことになり、司法の限界を超える判断を裁判所に強いることになるのである。これを吉井川等についていえば、吉井川等の溢水の危険は予見されていたし、また予見可能であったのであるから、被控訴人横須賀市が適切な財政的措置を講じておれば、吉井川等の改修は本件水害前に行うことが十分可能であった。しかし、被控訴人横須賀市の考えでは、他の福祉や教育等の予算との対比との関係でそれは不可能であった、と反論することが可能となり、そうなれば、結局、司法が、その当否の判断を強いられることになるのである。

ウ 技術的制約

被控訴人横須賀市は「排水ポンプの設置にしても放流先である平作川の流下能力が高まってからでないと意味をなさないという技術的制約がある」という。しかし、平作川の流量がその許容容積の範囲内にある場合、吉井川の河口部分に柵と水門を設置するならば、平作川からの逆流を防ぐことはできるのであるから、少なくとも平作川からの影響は断ち切れたはずである。次に、柵と水門だけでは平作川からの逆流は防ぎ得ても、控訴人ら居住地域に滞留した水を外に排出することは不可能であるから、柵と水門を兼ね、排水の機能まで備えたものとして排水ポンプの設置が当然考えられる。これが設置されていれば、少なくとも平作川が溢水しない限り、控訴人らの居住地域がほとんど水害に悩まされることはなかったはずであり、このことは、平作川の当時の流下能力の範囲内の降雨量の場合には効果的に機能したといえるのである。したがって、平作川の容量が小さいから吉井川の対策を講じたとしても無意味であるとはいえない。

もっとも、平作川の当時の流下能力以上の降雨があった場合には、吉井川等のみを改修したとしても、無意味であることは被控訴人横須賀市の述べるとおりである。そこで、控訴人らは吉井川、甲・乙・丙水路の瑕疵について、共同不法行為の法理による関連共同性を主張してきたが、被控訴人横須賀市の主張はまさにこの関連共同性の主張を理由付けるものである。そもそも河川の管理は、その水系の全体系の中で互いに関連するものとして、動的、機能的にとらえなければ、水害は防ぎ得ないのである。管理する行政主体が、それぞれの所管事務を無関係に行うならば破綻を見ることは必至である。被控訴人らが持ったという連絡協議会についても、平作川の改修の必要性を認めながら、何ら有効な対策を講じないままであった。要するに、被控訴人横須賀市の主張は、平作川との技術的な関連性を強調することによって共同の責任を分担しようとするのではなく、平作川の改修の遅れを自ら有利に援用し、もって責任を免れる根拠とするものである。

エ 過渡的安全性論について

① 被控訴人横須賀市は、下水道設備には諸制約が内在するため、下水道としての機能を担っているすべての水路について通常予測し、かつ回避し得るあらゆる水害を未然に防止するに足る施設を完備するためには、相応の期間を必要とし、未整備水路又は整備不十分な水路の安全性としては、過渡的安全性をもって足りるとせざるを得ないと主張する。

しかし、このような考え方では、たとえ受忍限度を超えるような災害があっても、たとえ下水道の改修に怠慢があっても、過渡的安全性論によって免責されるという、不当な結果を容認するものであり、被害住民の救済は永久に放置されることになる。過渡的安全性なるものは、営造物の瑕疵という客観的に判断されるべき概念の中に、時間的制約とか財政的制約とかの管理者側の事情を導入して解釈しようとするものであって、仮にこの考え方がまかり通ることになると、将来営造物の安全性が確保されるまでは、現状の不十分な状態で我慢せよ、ということと同じであり、結局のところ、営造物の瑕疵は永久に国民が甘受すべきである、という主張に外ならない。そして、仮に営造物の安全性が達成された場合でも、一度被害が発生すれば、いまだ改修途上にあったとして、また過渡的安全性論を持ち出せばよいことになる。

② 仮に、過渡的安全性論の議論を受け入れるとしても、本件の下水道は人工公物であるから、過渡的安全性の理論の適用はない。

③ ところで、被控訴人横須賀市は、自然公物、人工公物といった管理対象物の形式的な区別を過渡的安全性論適用の基準とすることは誤りであると主張する。

昭和五九年一一月二九日最高裁判決は、河川のみが道路等の営造物と異なる例外的取扱いを受ける根拠として、自然公物と人工公物とを区別し、自然公物について過渡的安全性論を適用しているのであって、仮に過渡的安全性論を人工公物についても適用するならば、河川のみならず、すべての営造物に過渡的安全性論を適用すべきことになるが、かくては国家賠償法二条が営造物責任を定めた趣旨は没却されてしまうのであるから、過渡的安全性論はあくまでも自然公物に限定して例外的にしか適用を許されないのである。

しかも、被控訴人横須賀市自らが、甲・乙・丙水路はいずれも時間あたり六〇ミリメートルの場合においても十分排水可能な基準で施工されたと述べることからも明らかなとおり、甲・乙・丙水路はそもそも一定の安全基準を備えるものとして設計施工されているはずのものであって、これらについてまで当初から危険性を内包したものということはできないから、甲・乙・丙水路に過渡的安全性論を適用することはできない。

(二)  下水道事業計画の不当性

(1) 下水道事業計画実施時期の不当性

ア 仮に、下水道事業計画の実施には時間的制約が伴うことを認めるとしても、被控訴人横須賀市の下水道事業計画の立案、施工、完成までの期間は、次に述べるとおり、合理的期間になされたとは到底言えない。

① まず、本件水害発生地帯の宅地化の時期についてであるが、本件第一審原告一〇七名のうち一五名、本件第二審控訴人三〇名のうち四名は、もと横須賀市久里浜町飛井という水害の危険のない地域に居住していたものであるが、日本国海軍の軍需施設ができるために、強制的に立ち退きを命じられ、昭和一七、一八年ころ、本件水害発生危険地域である舟倉町、久比里町に移住してきたものである。海軍に立ち退きを命ぜられて移住してきた所帯数は、本件訴訟の当事者ですら右のとおりであるから、その総数に至ってはかなりの数にのぼるもので、本件水害発生地域の宅地化は、右強制疎開者から始まっている。

② 強制疎開者等は、昭和三三年の平作川溢水により床上浸水の被害を受けたので、自費で土盛りを一メートル以上行い、さらに梯子や「ウマ」と称する非難用具まで準備し、自ら水害対策を講じてきた。そして、被控訴人横須賀市に対し「平作川改修に関する請願」(昭和三三年一二月一一日)を、横須賀市議会議長に対し「舟倉町及び池田地区排水施設整備方に陳情」(昭和三五年六月八日)をして、行政当局に平作川及び舟倉地区の排水施設の整備を強く要望してきた。

③ 昭和三三年の水害に加えて、昭和三六年にも平作川が溢水し、本件水害発生地域は大被害を被り、新聞等でも水害対策の遅れが指摘されていた。

④ 以上のように、本件水害発生地域は、行政当局による水害対策の必要性が、昭和三三年以来緊急に望まれていたのに、被控訴人横須賀市が自認するとおり、昭和四三年に至って初めて調査に着手したというに過ぎないのである。その間の一〇年間の空白がある。

イ さらに、被控訴人横須賀市は、放流先である平作川の流下能力が高まってからでないと排水ポンプ場の設置は意味をなさないから、吉井川に対しては昭和三五年から、その流下能力を維持し、かつ、安全性を増すべく既設水門の流れを円滑にするための排水設備工事等を実施していたのであるから、その管理に瑕疵はないと主張する。

しかし、昭和三六年以降においても本件水害時までに、たびたび平作川の溢水を伴わない下水道からの溢水による床上浸水があり、昭和四五年及び四七年には吉井川の溢水による床上浸水が生じた。ということは、平作川の流下能力に余裕がある場合にも吉井川の溢水による水害が発生していたことを意味し、平作川の流下能力を云々する前に、被控訴人横須賀市としては、吉井川の流下能力を維持するのみという消極的な対策ではなく、流下能力を高める水害対策を講ずるべきであった。

(2) 下水道事業計画内容の不当性

ア 被控訴人横須賀市の基準降雨量六〇ミリメートルを基礎とする下水道事業計画には、次のような不当性がある。

第一は、法令上の問題である。下水道法六条一号は、事業計画の認可基準の一つとして、「当該地域の降水量」を明示している。他都市又は全国平均を基準として判断すべきものではない。当該地域は、被控訴人神奈川県が昭和三九年に策定した河川改修計画では、時間雨量七〇ミリメートルが想定され、同四六年度の改修計画においては、時間雨量93.2ミリメートルが基準とされていた。さらに都市計画法三三条一項三号も、開発許可の基準として、やはり「当該地域における降水量」を掲げている。

第二は、放流先の状況を考慮していない点である。このことは前記下水道法六条一号、都市計画法三三条一項三号ロにも明記されているところであり、特に本件下水道の場合、平作川が逆行してくる現状を考慮するならば、それに対処できる有効な事業計画であったかどうかが判断されなければならない。

イ 被控訴人横須賀市は、本件下水道事業計画は確率年を、下水道整備としては最大の一〇年とし、時間雨量六〇ミリメートルを基準降雨量としたものであって、合理的かつ妥当な選択であると主張する。

しかしながら、右の主張は、本件水害発生地帯の地形的特性を無視したものであって不当である。吉井川・甲・乙・丙水路は、二級河川である平作川と地形的に密接に関連しており、放流先である平作川と一体の水系をなしているのであるから、吉井川等は単なる都市機能としての下水道という観点ばかりでなく、水害防止という観点からみた機能と、それに見合った構造が要求されるのである。したがって、吉井川等はその地形的特性に鑑みると、下水道の一般的水準のみによってその事業計画内容を決定するのは誤りであり、むしろ平作川と一体となった水害防止対策が講じられていなければならない。被控訴人横須賀市の主張する時間雨量六〇ミリメートルを基準降雨量とする下水道事業計画は、水害のおそれのない地形では妥当するかもしれないが、水害危険発生の危険性が高い地形的特徴をもつ本件水害発生地帯では、全く妥当しないものであり、その計画自体が極めて不十分である。平作川の河川改修計画では、昭和三九年に時間雨量七〇ミリメートルを基準としているのであるから、吉井川等も平作川改修計画に見合った基準での下水道事業計画が立案、施工、完成されるべきであった。

(三)  宅地化規制の可能性

被控訴人横須賀市は、本件水害発生地帯の宅地化に対し、法律的に何ら有効な規制手段を採り得なかったと主張する。しかし、

ア 森崎団地等について

これは横須賀市開発公社が造成したもので、開発面積46.8ヘクタールに及び、二二四九戸を収容できる大住宅団地であるが、昭和三八年に着工されて同四六年に完成している。その他、横須賀市開発公社は、昭和四八年に大矢部団地の開発に着手している。

イ 久里浜工業団地について

これは被控訴人横須賀市が、本件水害発生地域の近辺を工場誘致地区に指定し、土地区画整理事業を含む宅地の造成を奨励したものであるが、昭和三六年に着工されて本件水害発生当時にはほとんど完成していて、その開発面積は145.2ヘクタールに及んだ。

ウ 開発行為の許可

甲水路の源である長銀団地及び辰巳団地は、昭和四一年と四四年にそれぞれ着工されて同四五年に完成し、その開発面積は合計二三ヘクタールであるが、被控訴人横須賀市の許可を得ている。乙水路の源である池田団地は昭和四二年に着工されて同四三年に完成し、その開発面積は、約14.5ヘクタールであるが、これもまた被控訴人横須賀市の許可を得ている。

その他一〇〇〇平方メートル以上の開発はすべて被控訴人横須賀市の許可を得てなされたものである。

被控訴人横須賀市は、平作川流域の溜池約三万二六七〇平方メートルの潰廃を許可している。

エ 農地山林等を造成する場合、法律上は宅地造成等規制法及び都市計画法等に基づいて行われるのであって、住民が自由になし得るのではなく、むしろ多くの規制が存在する。

(四)  受忍限度について

被控訴人横須賀市は、条件の悪い本件水害発生地域に多くの建築者が土盛りをしたから、雨水が逃げ場を失い浸水被害を増大させたと断じ、かかる建築者は当然浸水のあることを予測しあるいは予測し得たのにこれをしないで建築したものであるとし、このような場合の受忍限度は、通常の自然的条件を持つ宅地の場合よりも広く設定されるべきであると結論する。

以上の被控訴人横須賀市の考えは、一言で言えば、行政不在の論理であり国家賠償法否定の論理以外の何ものでもない。なぜならば、平作川及び吉井川等の流下能力を考えた上で、無秩序な開発を規制するのが行政の責務であるのに、被控訴人横須賀市の考え方でいけば、法的規制がないからという理由で規制をせず、水害の発生など考慮することは全く無用となるからである。しかし、一体住民のうち、誰が平作川や吉井川の流下能力を知っていたのであろうか。総合的な知識と資料を持っていたのは行政なのであり、それを知らずに造成した者に責任を帰せしめることは、許される論理ではない。

32  一五四丁裏末行「8」を「(五)」に改め、一五五丁裏六行目の次に行を変えて次のように加える。

(六) 結果回避義務及び結果回避可能性について

被控訴人横須賀市は、本件の下水道の溢水については、結果回避義務及び結果回避可能性は存しないと主張する。しかし、その主張は次のとおり不当である。

(1)  まず、基準降雨量の六〇ミリメートルが妥当でないことを既に述べたとおりである。さらに、放流先の平作川の管理者である被控訴人国及び神奈川県と同様に、被控訴人横須賀市も、本件水害時程度の降雨量を認識し、又は認識し得たものであるところ、被控訴人横須賀市は、その降雨量に対処できる能力と構造を有する下水道設備に改修する義務があるはずである。

(2)  次に、本件下水道は、基準降雨量六〇ミリメートルを超えない雨量にも堪えられない欠陥下水道であると言うことである。海上自衛隊横須賀地方総監部防衛部の一〇分雨量の測定結果によると、次の事実が明らかである。

① 午前四時二〇分から同五時二〇分までの時間雨量は55.5ミリメートルでこれがこの時間帯までの最大値である。

② 午前四時三〇分から同五時三〇分までの時間雨量は六三ミリメートルであり、この後午前四時三五分から同五時三五分までの時間雨量68.2ミリメートルをピークとして、時間雨量が漸減していった。

すなわち、一時間の総降雨量が六〇ミリメートルを超えるのは、午前五時二〇分から同三五分までの間であり、この時点までは時間雨量が六〇ミリメートルを超えることはなかった。ところが、吉井川は午前五時ころまでに既に満水となり、そのころからほぼ全川にわたって溢水し始めたのであるから、本件下水道は、未だ時間雨量六〇ミリメートルを超えない段階で、早くも溢水を開始していたことが明らかである。前記地方総監部の測定結果によれば、溢水を開始したころの時間雨量は、せいぜい五〇ミリメートル程度しかなかったのである。そうすると、本件水害時の本件下水道からの溢水は、時間雨量が六〇ミリメートルを超える降雨があったから溢水したのではなく、時間雨量六〇ミリメートルを超えない降雨であっても、本件下水道は、雨水を安全に流下させることができなかったのである。したがって、本件下水道は、時間雨量六〇ミリメートル以内でも溢水し、地域住民に浸水被害をもたらしたものである。

(3)  第三に、時間雨量五〇ミリメートル程度の雨にも耐えられない欠陥下水道が、管理者自らが立てた基準降雨量六〇ミリメートルを超えたから、結果回避義務がないとすることもできない。なぜなら、六〇ミリメートル以内の降雨なら責任が発生し、それをわずか八ミリメートル超えると免責されるということになり、いかにも不自然であるからである。

第三  証拠〈省略〉

理由

一当裁判所も、控訴人らの本訴請求はいずれも失当として棄却すべきものと判断する。その理由は、原判決理由説示のとおりであるから、これを引用する。ただし、次のとおり付加、訂正する。

1  原判決書一六一丁表一〇行目「別紙原告目録」から一六二丁表一〇行目「居住していたこと。」までを「別紙控訴人目録記載1ないし25、28ないし30の控訴人ら(ただし、別紙控訴人目録記載8、10の控訴人らについては別紙承継人一覧表被承継人欄記載の被承継人ら)が、昭和四九年七月八日当時横須賀市舟倉町に、別紙控訴人目録記載27、28の控訴人らが右当時同市久比里一丁目に居住していたが、別紙控訴人目録記載1ないし9、30記載の控訴人ら(ただし、同目録記載8の控訴人については被承継人)が別紙図面(一)表示のA地区に、別紙控訴人目録記載10ないし12の控訴人ら(ただし、同目録記載の10の控訴人については被承継人)が別紙図面(一)表示のB地区に、別紙控訴人目録記載13ないし17、23、24、29の控訴人らが別紙図面(一)表示のC地区に、別紙控訴人目録記載18ないし21、25の控訴人らが別紙図面(一)表示のD地区に、別紙控訴人目録記載22、28の控訴人らが別紙図面(一)表示のE地区に、別紙控訴人目録記載26、27の控訴人らが別紙図面(一)表示のF地区に、それぞれ居住していたこと。」に改める。

2  一六三丁裏五行目「別紙原告目録」から同所九行目「原告ら」までを「控訴人ら(ただし、別紙控訴人目録記載8、10の控訴人らについては、別紙承継人一覧表被承継人欄記載の被承継人。なお、別紙控訴人目録記載8、10の控訴人ら」に、一六四丁表二行目「右原告ら」を「別紙控訴人目録記載の10の控訴人」に、同所四行目「別紙原告目録」から同所八行目「原告ら」までを「別紙控訴人目録記載の住所(ただし、別紙控訴人目録記載17、24、27、28、30の控訴人ら」に、同丁裏二行目「おおよそ」から同所三行目「うかがわれる。)」までを「相当大きな浸水被害であったことがうかがわれる。)」に改める。

3  一六四丁裏一〇行目「被告横須賀市」から一六五丁表六行目「ということができる。」までを「吉井川、甲・乙・丙水路については、供用開始の告示等については明確な資料がないが、これらを被控訴人横須賀市が管理していることはその自認するところであり、被控訴人横須賀市は、後記第四、二のとおり、吉井川に対し排水整備工事、塵介取除用格子の取付け、門扉改良のための水門改良工事、清掃工事、護岸石積工事、土砂浚渫工事を実施するなどし、またこれらを下水道事業計画網に組み入れる等していたのであるから、これら水路等についても、被控訴人横須賀市が、国家賠償法二条一項所定の「公の営造物」としての右各水路の管理者であると解するのが相当である。」に改める。

4  一六五丁裏九行目「昭和四九年」から一〇行目「移動したこと。」までを削り、一六六丁表五行目「及んだこと。」の次に「平作川の流域では、降雨は上流から始まり、下流に移動したこと。」を加え、同所九行目「甲第二〇号証、」を「甲第一九、二〇号証、第六〇号証、」に改め、同丁裏四行目「乙第三六号証」の後に、「、原審における証人中村浩幸の証言により真正に成立したものと認められる乙第二〇号証並びに原審における証人河野幸男の証言」を加える。

5  一六七丁裏二行目「氾濫し、」から同所五行目「災害となった。」までを「氾濫した。その被害は、主に横須賀市に集中し、死者一三名、負傷者二五名(重傷一〇名、軽傷一五名)の人的被害を被ったほか、建物被害としては、全壊住家一一三戸、全壊非住家四三戸、半壊住家六四戸、半壊非住家七戸、床上浸水住家三四〇二戸、床上浸水非住家一九三戸、床下浸水住家三三八四戸、床下浸水非住家一九戸に上り、その他にも崖崩れ一六六五か所、道路破損二九四か所、橋梁破損一〇か所、被害総額五四億三一六五万二〇〇〇円という損害を受けた。又、市内の浸水面積は、742.8ヘクタールに及び、これは市域総面積の約7.5パーセント、市街化地域面積の約二五パーセントに当たるという大きな災害となった。殊に、平作川流域においては、床上浸水二三八八戸、床下浸水一三〇六戸の被害が発生し、平作川に沿った国道一三四号線も冠水し、県道野比葉山線衣笠十字路から湘南橋にかけては水深0.5ないし二メートル、京浜急行北久里浜駅から久里浜駅にかけては水深0.5ないし一メートルに及び、ほぼ全川に沿って約六〇〇ヘクタールが浸水したため、横須賀市の浸水被害の中心となった(平作川沿川地域が上流より下流まで一面湖状を呈したことは被控訴人国及び神奈川県の自認するところである。)。

なお、横須賀市における戦後の風水害による被害としては、昭和二四年の台風による損害が全壊二三戸、半壊一二五戸、重傷者一名、昭和三三年の台風二二号による災害が死亡四名、重傷者一一名、軽傷者六名、全壊五三戸、半壊七〇戸、床上浸水八八五戸、床下浸水三七五八戸、昭和三六年の集中豪雨による被災が死亡一六名、重傷者一一名、全壊七一戸、半壊九八戸、床上浸水八七六戸、床下浸水三三五八戸である。したがって、本件水害による被害は、横須賀市においては戦後最大の規模であるということができる。」に改める。

6  一六九丁裏九行目の次に行を変え、次のとおり加える。

(六) なお、県下の主な地域の総降雨量についてみると、横浜で一〇七ミリメートル、大山で一二七ミリメートル、元箱根で二二六ミリメートル、塔が岳で一三七ミリメートル、玉川学園で七二ミリメートル、横須賀宝金山で一九五ミリメートルをそれぞれ記録した。右各地の定時最大一時間雨量(例えば午前八時から午前九時までというような定時ごとの一時間降雨量のうち最大の一時間降雨量をいう。)及び定時最大三時間雨量(例えば午前八時から午前一一時までというような定時ごとの三時間降雨量のうち、最大の三時間降雨量をいう。)についてみると、原判決別表(四)のとおりである。これをさらに子細に、平作川流域近傍の海上自衛隊横須賀地方総監部、宝金山、運輸省港湾技術研究所の雨量記録紙によってみると次のとおりである。すなわち、総雨量は、海上自衛隊横須賀地方総監部242.9ミリメートル、宝金山一九四ミリメートル、運輸省港湾技術研究所182.5ミリメートルであり、上流部に雨量が多かった。海上自衛隊横須賀地方総監部では、七月八日午前〇時一〇分ころに降り始めた雨は、断続的に極めて激しく、なかでも三時四〇分前後と五時前後は一時間51.7ミリメートルから68.2ミリメートルの激しい雨を記録し、午前九時一〇分に降り止んでいる。宝金山では、同日午前〇時五〇分ころに降り始め、二時一〇分から七時一〇分までの五時間、ほぼ一〇分間に四ないし一四ミリメートルの強雨が継続的に降っており、そのピークは四時五六分から五時一一分までの一五分間に二一ミリメートルの激しい雨を記録している。運輸省港湾技術研究所では、同日一時四〇分ころに降り始め、三時一〇分から二〇分にかけて、16.5ミリメートルの豪雨があり、さらに、五時四〇分から五〇分にかけ一七ミリメートル、六時三〇分から四〇分にかけて一七ミリメートルの強い一〇分間雨量が記録されており、また二時四〇分から三時三〇分までの五〇分間には52.5ミリメートル、五時四〇分から七時二〇分の一〇〇分間には九八ミリメートルの激しい雨が記録されている。最大六〇分雨量は、海上自衛隊横須賀地方総監部では68.2ミリメートル(四時三五分から五時三五分まで)、宝金山では五六ミリメートル(四時四一分から五時四一分まで)、運輸省港湾技術研究所では六七ミリメートル(五時四〇分から六時四〇分まで)であった。

7  一七〇丁表七行目冒頭から一七二丁裏二行目末尾までを次のとおり改める。

(二) 平作川及び吉井川の溢水状況に関しては争いがあるので検討する。

(1)  これに関係する証拠資料の概要は次のとおりである。

① 控訴人大和田義雄の原審における供述

控訴人大和田義雄は、C地区に居住している。同人の家の敷地は周囲の家に比べると低い方である。水害当日の朝は、だいたい午前五時三〇分ころ起床した。そのころ、便所へ行く廊下の窓から自宅前の道路を見たところ、一〇センチメートルくらいの高さの水が、国道(平作川)の方向から一気に流れてくるのがみえた。

② 第一審原告北村藤兵衛の原審における供述

第一審原告北村藤兵衛は、A地区に居住している。午前五時ころ、起きて、外を見ると、道路に水が来ていた。五時三〇分すぎころに、自宅の裏玄関(吉井川側)に水が入った。裏からゴウゴウと川のように流れてきていた。六時ころに水位がぐっとあがった。

③ 第一審証人三ツ橋隆子の原審における証言

第一審証人三ツ橋隆子は、F地区の平作川と吉井川の合流点付近に居住している。時間は定かではないが、だいたい五時三〇分から六時ころの間に雨音で目が覚めた。外へ出て三崎屋旅館付近の吉井川をみると、すでにどこが川かすぐ横の道路かが分からない状態になっていた。水門付近をみると、ごみや木片は吉井川の上流の方に動いて行くようにみえた。急いで家に引き返し、子供を自家用車に乗せて非難するために、平作川のD点付近に出たところ、平作川の水がパラペットの切れ目の下の方の部分から道路に入り始めている状態であった。それから、自宅において家財の片付けを始めたが、床上まで水がきたために隣家に避難した。しかし、隣家も床上浸水に至り避難するために、再びD点付近の平作川沿いの道路に出た。その時の道路の水深は、ひざ上一五センチメートルであり、パラペットの切れ目と平作川の水位は同じ高さであった。そのまま人道橋まで行くと、人道橋付近のパラペット切れ目(E点)から、容赦なく平作川の水が流入していた。平作川の水は人道橋を越えてはいないが、ごみなどがつかえていた。いったん避難した後、八時三〇分ころ(高校生が臨時休校により帰ってきていた時間)、夫婦橋から人道橋を見降ろしたところ、平作川の水は、人道橋を越えて流れていた。そのとき、人道橋の上では、一人の男性が鈎手のようなものを持って、ごみを取り除こうとしていたが、警察官らしい人に制止され、ロープが張られた。なお、後日、平作川のC点付近に居住する人から、C点のパラペット切れ目から水が滝のように入ってきたと聞いたことがある。

④ 第一審原告(被承継人)鈴木邦明の原審における供述

第一審原告(被承継人)鈴木邦明は、A地区に居住し、自宅裏は吉井川である。会社からの呼出し電話により、午前四時ころ起きた。そのときに吉井川の水位は護岸の二〇センチメートルくらい下にあった。四時三〇分ころ、平作川の梅田橋を通って会社の工場まで行ったが、そのときの水位は、右岸すれすれ位であった。その後、五時一〇分ころ、平作川左岸沿いの本社(池田町四丁目)に行き、二階の事務所で平作川の様子を見ていた。だいたい六時ころ、平作川左岸は溢水した。波が次から次へ押し寄せるようにして、国道を越えて会社の方へ水が入ってきた。六時三〇分ころ、自宅へ戻ったが、自宅付近は水が一杯で水が吉井川の方向に流れていた。

⑤ 第一審原告山本卯一の原審における供述

第一審原告山本卯一は、E地区に居住している。午前五時ころ起床した。六時ころに水が入ってきた。勢いよく裏玄関(吉井川側)から水が入ってきた。表玄関(平作川側)から水が入ってきたのは、そのずっと後で、一時間くらい経ってからである。八時か九時ころに二階に上がってはじめて平作川をみると、川か道路かわからない状態になっていた。

⑥ 控訴人古谷正利の原審における供述

控訴人古谷正利は、D地区に居住している。当日、午前三時三〇分ころ、起床した。この時間は確認した。すぐに外へ出て平作川を見に行った。普段より少し多い程度の水量であった。

いったん自宅へ帰って、四時二〇分から三〇分ころに再び平作川を見るために外へ出た。平作川は明らかに増水していたが、まだ溢水してはいなかった。D地区及びその付近をひとまわりしてから、五時ころ乙水路が国道地下の暗渠となる直前付近を見た。水がとどこおっているような印象であった。それから平作川を見て、付近にいた人と話した。このときはまだ平作川は、溢水していない。自宅へ戻ったが、このときは自宅付近は特に水がたまっているという様子はなかった。

五時四〇分ころ、平作川を見に出かけた。自宅付近の道路の様子に変化はなかった。平作川は、歩道から斜横約四〇センチメートルの所まで水が来ていた。乙水路の前記場所付近は、当初から遊水池ような場所だが、水が一杯になっていた。平作川を見ている人から、下舟倉の人孔が水を噴いているということを聞いたので、国道を平作川下流方向に向う。六時ころ、b点の人孔から丁度人孔の幅くらいの水が腰の高さくらいまで噴き上げていた。そのころ丁度知人の車が来たので、日の出橋をわたって右岸の町内会事務所へ行き、六時二〇分ころに車で戻るが、このときはまだ国道は自動車で走れた。日の出橋付近で平作川を見たが、その水位は堤防に比べて余裕があった。途中で車を降りて、回りの人達を起こしながら自宅へ帰る。その時の水はまだ踝のあたりであった。自宅の前の道路は水がたまっていないが、敷地に停止してある自動車の前輪タイヤが少しのぞくくらいまで水が来ていた。

⑦ 証人古川隆の原審における証言

証人古川隆は丙水路付近に食料品店を経営し居住している。当日は、四時前後に「水が出ている。」と起こされた。そのときに既に店の中は、一尺くらいの水がたまっていた。それから水位の最高まで約三〇センチメートル上昇した。

⑧ 証人山口福次の原審における証言

証人山口福次は倉庫管理のために、丙水路付近に居住していた。六時少し前に起床すると、すでに丙水路は溢れていた。

⑨ 控訴人岩村文雄の原審における供述

控訴人岩村文雄は、A地区に居住している。水害当日、四時三〇分ころに目が覚めた。この時間は確認した。近くの理容業砂山から「水が出たから手伝ってくれ。」と請われ、外へ出た。既に水が約一〇センチメートル道路の上にたまっていた。六時ころまで手伝った。そのころには、道路には四〇ないし五〇センチメートル冠水していた。

⑩ 第一審原告石渡友吉の原審における供述

第一審原告石渡友吉は、A地区に居住している。午前五時ころに目が覚めた。吉井川の水が道路に溢れて流れていた。荷物を上げているうちにいつのまにか床上に水がきた。

⑪ 〈書証番号略〉(久比里自警消防団員の活動、証人冠堯夫の証言によりいずれも真正に成立したものと認められる。)

五時前ころ、自警消防団員の一部の者が、吉井川河口の水門を開けた。五時一五分ころ、団員は非常召集を受け、同三〇分ころに若宮神社社務所に集合した。同四五分ころ、三崎屋旅館前道路には、吉井川の水があふれていた。六時一〇分ころの舟倉地区(A地区)はすでに水で歩けないような状態になっていた。そこで京浜急行の線路敷を歩いてC地区に入った。水が道路上で腰から胸くらいまであった。それから、国道に出て平作川左岸を吉井川河口に向った。七時二〇分ころの吉井川河口付近は水位が深く感じたのでパラペットの上を歩いた。このときは平作川の水位の方が低かった。同三〇分ころ、三崎屋旅館前付近は水が肩くらいまでになっていた。このころ、パラペプットの切れ目のC点では、ごみや角材がつかえていたのでこれを取り除いて内水が平作川に流出できるようにした。八時すぎころ、人道橋へ行き、上流から流れてくるごみを取ったり、プロパンガスボンベが人道橋にぶつかるのを防ぐために棒で上から押して下流へ流した。そのころの水位は人道橋の橋げたぎりぎりであったが、水の中に潜ってはいない。そして橋の上は危ないから、ロープを張って通行止めにした。

(2)  以上の証拠によれば、吉井川及び平作川の溢水時期、溢水状況に関しては、矛盾した証拠が存在する。しかし、本件水害地域は、本来低湿地で、建物建築に際して盛土をすることが常であり、各所在地の地盤の高さはまちまちであって、溢水流の振舞いに関する供述が整合しないのはそのためであると考えられる。そして、本件水害のような危急時においては、目撃者等関係者の認識も混乱していることは容易に推測されるところであり、又、記憶は時の経過によってさまざまに変容し、殊に、関係者の時間に関する記憶はあいまいとなるのが通常である。しかし、その中でも、特徴的な出来事の有無自体及び何かに関連づけて記憶していることは、比較的変容を遂げにくいものであるといえること、時間に関しても特に確認した場合は信を措くことができることを考慮し、さらに前記認定事実に、右各証拠、(〈書証番号略〉)を総合すると次の事実を認めることができる。

① 昭和四九年七月八日未明ころ、横須賀市では、前記のような強い降雨があった。平作川上流では、午前四時前後及び午前五時前後に特に強い降雨があり、下流では午前三時ころと午前五時四〇分から七時二〇分ころにかけて強い雨があった。したがって、原告ら居住の平作川下流域である舟倉、久比里地区付近には、上流から流下してきた河川水と雨水とがほぼ同時に到達することになり、折からの満潮(その時刻は午前六時一三分である。)とも重なることになった。

② 午前四時ころから舟倉地区に降った雨水が同地区内の低地に溜まり始め、そのころから満水状態になりつつあった吉井川は、四時三〇分から五時ころにかけて、舟倉地区において溢水を始めた。吉井川の水は同地区を吉井川の下流方向に道路及び宅地を流下し、河口付近では、川沿いの道路と河川とが一体になる状況を呈した。

③ 丙水路は、午前四時すぎころから、水路から水が溢れ始め、殊に、満潮及び平作川の増水と重なって流下しなくなった。乙水路も五時ころから満水状態となり、五時三〇分ころには開渠部分から溢れ、丙水路と同様の状態となり、乙・丙水路の溢水流はD地区、C地区、E地区を経て、A地区、B地区に及んだ。甲水路は、前面暗渠の水路であるために直ちに溢れるようなことはなかったが、五時三〇分ころ、甲水路の人孔鉄蓋が水圧に耐えかねてはずれ、水が噴出し、その水流はA地区及びB地区を流下した。

④ 以上のような内水の溢水流のために、平作川からの溢水が開始する以前において、標高の低い舟倉地区では床下浸水の状態となり、一部の家屋では床上浸水の被害が発生し始めた。

⑤ 平作川の溢水は上流から始まり、次第に下流に及んだのであるが、AB間においては、平作川の水位は、前記①の降雨及び上流からの河川水の流達により、概ね六時前には梅田橋付近でほぼ満水状態となり、六時ころから、梅田橋下流付近左岸から溢水が始まり(右岸からの溢水はそれに先行している。)、七時ころまでの間にその溢水はB点付近までの左右両岸に及んだ。溢水は、遅くとも一一時から一二時ころまでの間に終ったが、その結果、平作川両岸は、湖のような状態を呈するに至り、国道上では、およそ六〇センチメートルから一メートルくらいの浸水状況となった。左岸では、前記の内水を併せて、その溢水流は、AないしE地区のほぼ全域を覆った外、日の出橋付近の京浜急行路線の吉井川橋梁下(以下、「京浜急行路線吉井川橋梁部分」という。)及びそれに隣接する同路線下の道路部分を通過してF地区に及んだ。平作川、乙水路の下流部、丙水路の下流部の各溢水流の一部は吉井川上流の京浜急行路線橋梁付近から京浜急行久里浜工場付近にかけて京浜急行線路敷を越えたうえ(この結果、線路は水没した。)、同線路に沿ってF地区にまで及んだ。

⑥ ところで、日の出橋から夫婦橋にかけて平作川左岸に高さ一メートルないし1.8メートルのパラペットが設置されている。また、夫婦橋上流五〇ないし六〇メートルの地点には人道橋が設置され、E点の人道橋両側に設けられたパラペット切れ目からパラペットの内部に入り、人道橋に至る構造になっていたものであるところ、平作川の満水時においても、人道橋を大きく越えて河川水の流下があったことはなく、平作川の河川の流水の高さは、結局パラペットの底辺の高さを越えず、パラペットの切れ目から流水が入ったことはあったが、それはあくまでも洪水の流勢によるものであった(したがって、この点に関する第一審証人三ツ屋隆子の原審における証言は採用しない。)。

⑦ 当日の雨は、八時ころまでには弱くなり、九時すぎには降り止んだ。そして、前記の溢水流は、舟倉地区、久比里地区において早いところでは、昼すぎから引き始め、地盤高その他の関係により遅い所では翌日に至ってようやく引くに至った。

8  一七二丁裏四行目冒頭から一七三丁表四行目末尾までを次のとおり改める。

本件水害時における高水流量については、本件当時これを実際に測定した資料が存在しないため、降雨強度、流域面積、地形条件等から計算する外はない。この観点から試算したものとして、前掲証人中村浩幸の証言及び〈書証番号略〉(「平作川における昭和四九年七月洪水に関する解析」)がある。〈書証番号略〉は、河川の流域を幾つかの矩形斜面と流路が組み合わされたものとみなし、これらの斜面や流路における雨水流下現象を、水流の運動法則と連続の関係を用いて水理学的に追跡する等価粗度法を用いて、本件水害時において生じた降雨による洪水が溢れることなく流下したと仮定した場合における平作川の流出量(河道に流れ込んだ量)を計算するとともに、他方、縦断的に平作川両岸の河岸高を調査し、河岸高が総体的に低い箇所を上流ほど高くなるように結んだ折れ線を引いて、その折れ線は区間全体について全体的にみた洪水の水位上昇を許容することのできる限界の高さとして把握したうえ、河道のある地点から下流のすべての区間で右の高さを超えずに流れ得る洪水の流量を求め、それをその地点における洪水処理機能の限界に対応する流量として、両者の比較を行ったものである。流出量の計算結果は、おおむね次のような過程により導出される。

①  平作川の流域の地形を調査して、各個が一つの斜面と置き換えられる一五四の小流域に分割する。

②  この小流域を等価斜面及び水路に置き換え、その斜面及び水路の延長、幅、勾配を設定する。

③  各小流域の等価粗度係数を設定する。これは、都市計画図に基づき各分割流域毎にその流域内の面積を土地利用別に求め、土地利用別の等価粗度係数をこれらの面積で加重平均して得る。

④  各小流域ごとに有効降雨量を求める。この場合、各小地域の降雨量は、時刻毎の海上自衛隊横須賀地方総監部観測所、運輸省港湾技術研究所観察所、神奈川県宝金山観測所の各測量結果から内挿して決定する。

これにより算定した結果、平作川の主要地点における最大洪水流出量及び洪水処理機能の限界に対応する流量は次のとおりである。

最大洪水流出量

洪水処理機能の限界に

対応する流量

宮原橋

毎秒  九八立方メートル

毎秒 四五立方メートル

五郎橋

毎秒一一一立方メートル

毎秒 六五立方メートル

梅田橋

毎秒一九五立方メートル

毎秒 六八立方メートル

夫婦橋

毎秒二三六立方メートル

毎秒一四三立方メートル

この計算結果は、計算過程そのものから明らかなように、いくつかの仮定に立ってモデルを設定し、また、必要な係数を採用するものであるから、結局、その算定結果は、現実の洪水流出量とは開きがあることは当然である。しかしながら、一定の幅の誤差はあるとはいえ、その計算及び推論の過程は理論的、合理的である以上、近似値として考察の対象とするべきであり、そうすると、本件水害時において、平作川の流域における降雨とその流出量は極めて大きい規模であったと判断することができる。

9  一七三丁裏五行目「困難である。」の次に「しかしながら、前記認定の、本件水害時における平作川の溢水は上流から下流にかけてほぼ全域に及んだ事実、AB間における平作川の溢水は、午前六時ないし七時ころから遅くとも一一時ないし一二時ころまでに及び、その程度も一時期には国道一三四号線上で深さおよそ六〇センチメートルから一メートルに達するものであった事実に加えて〈書証番号略〉による前記解析結果を参考にするならば、平作川の溢水の量が吉井川及び甲・乙・丙水路からの溢水の量をはるかに凌駕するものであったことは推認するに難くないといわなければならない。」を加え、同所八行目「及び前記公共下水道である」を「並びに」に、同所九行目「流水能力と」を「流水能力が」に、同所一〇行目「との差異」を「に及ばないこと」に改める。

10  一七四丁裏三行目「平作川」の前に「現在の」を加え、一七五丁表二行目「(2.6メートル、一メートル、四メートル)」を削除し、同所七行目「上流への」を「上流の」に改め、同丁裏二行目「甲第一五号証、」の後に「第一九号証、乙第二〇号証」を加え、同所四行目「第一九号証、」を削除し、一七七丁表三行目「乙第二号証、」の後に「第一二号証の一、二」を加え、同所八行目「前掲証人」の後に「三ツ橋隆子、」を加え、一七七丁裏三行目「延長は」から四行目末尾までを「流路延長は約一〇キロメートル、流域面積約二六平方キロメートルで」に改め、一七八丁裏二行目「一五〇」を「一五〇〇」に、同所三行目「一六〇」を「一九〇〇」に、同所八、九行目「万治三年(一六六〇年)ころ」を「万治年間(一六五八年ないし一六六〇年)」に改める。

11  一七九丁裏三行目「最近になり」を「昭和四〇年以降の急激な」に改め、同所五行目「変化していった。」の次に行を変えて「(三) 平作川は、昭和三三年九月の狩野川台風及び昭和三六年六月の集中豪雨により、それぞれ溢水氾濫し、流域に浸水被害をもたらしたが、その後は本件水害に至るまでは溢水することはなかった。」を加える。

12  一八〇丁表四行目「右京浜急行の」から同所五行目「接している。」までを「右京浜急行の線路をあたかも堤防のような境にしてA、B地区に接し、その間は、京浜急行路線吉井川橋梁部と同路線下道路によって開口している。」に改め、同所六行目「なお、」を削除し、「平作川は、」を「平作川の」に改め、同所八行目「若干高くなっているが」の後に「(標高2.6ないし3.5メートル)」を加え、一八〇丁裏末行「浸水を起こしていた」の後に「(特に、舟倉地区は、京浜急行路線敷と国道とに挟まれた地形で内水の滞留を生じやすい地形となっていた。)」を加える。

13  一八一丁表六行目冒頭から同丁裏末行「開口されていた。」までを次のとおり改める。

(一)  パラペット及びその開口部について

平作川左岸には、日の出橋から京浜急行路線平作川橋梁部及び同橋梁部から夫婦橋にかけて、高さ一メートルないし1.8メートルのコンクリート製パラペット(胸壁)が設置されていた。これは、昭和三六年の集中豪雨による被災直後に設置されたものであり、護岸の最上部にコンクリート壁をたて、堤防護岸と一体となって溢水を防止する機能を有するものである。

ところで、このパラペットは、平作川と吉井川の合流点が開口部となっていたほか、京浜急行路線平作川橋梁部寄りの右合流点付近(C点。この開口長約2.6メートル)、右合流点と旧人道橋(現在のものは本件水害後に架け替えられた。)との中間付近(D点。この開口長約一メートル)、旧人道橋架橋部付近(E点。旧人道橋の両側。人間が一人通れるくらいの幅がある。)に、それぞれ開口部が、人為的に、設けられていた。これらの開口部は、平作川の河口付近が漁業基地の様相を呈し、夫婦橋付近には漁船が係留されて、それへの荷役のためや漁業用資材の小屋が堤防内の河岸部にあり、それを利用する目的、またE点付近のものは旧人道橋への通路とする目的等のために開口されていた。

14  一八二丁裏七行目「高くなって」から九行目末尾までを「高くなっている。右区間の左岸は、ほぼB点から上流に六〇〇メートル位はその上下流部に比較して約五〇センチメートル低くなっているが、A地点では上流部に比較して構造上格段に低くなっている状態はみられなかった。」に改める。

15  一八四丁表一行目「架橋部は」の後に「堤防沿いの道路とほぼ同じ高さで」を加え、同所二行目「(パラペットは」を「(前記のとおりパラペットは」に改め、同所八行目「一ないし二三、」の後に「第六〇号証、」を、「第九五号証、」の後に「乙第二二号証(ただし、書込み部分を除く。)、」を加え、同所九行目「第六〇号証、」を削除し、同所一〇、一一行目「第二二号証(ただし、書込み部分を除く。)、」を削除し、同所末行「第三一号証、」の後に「第四三、四四号証、」を加える。

16  一八七丁表三、四行目「比較的災害が少なかったため」を削り、同所五行目「機運は生じなかった」を「ことはなかった」に改め、同所七行目「生じたため、」の後に「昭和三九年度には後記の河川改修計画を策定するとともに、」を加え、同所末行「五二〇メートル」を「五二二メートル」に改め、同丁裏一行目「着手され、」から一八八丁表一行目末尾までを「着手された。また、平作川の上流から進行した市街化が中流にまで及んだが、当時中流付近は極端に河道が狭かったため、昭和四一年度から森崎橋から国鉄横須賀線橋梁までの六九〇メートル区間を対象にして、小規模河川改修事業に着手した。この事業は、当時毎秒約三〇立方メートル程度の流下能力しかないこの区間を、毎秒一九〇立方メートルにまで高めようとする工事であったが、下流の治水機能に見合うように順次段階的に治水機能を高める施工方法を採った。ところが、下流区域の治水機能を高める改修工事が進捗しなかったために、河川幅員拡張、護岸構造は昭和三九年策定の河川改修計画の計画流量に従って施工されたものの、河道断面を増加し、治水機能を著しく高めるために必要な河床の掘り下げは、いわば二期工事回しとせざるをえなかった。

(四) 昭和四〇年代半ばになると、被控訴人神奈川県は、県下全川の改修を抜本的に見直そうとしたことに伴い、また、昭和四一年度からの、前記の森崎橋から国鉄横須賀線橋梁までの改修工事の一期工事ともいうべきものが完了に近付いたことを契機として、昭和四六年度に平作川全川の改修計画の基本ともなるべき後記の平作川河道計画案を策定し、その後は、この計画に基づいて段階的な改修工事が進められた。そして、昭和四七年度には、右工事に、横須賀線橋梁から真崎橋までの三〇〇メートルを新たに加えて事業を継続し、この区間の第一期段階施工は、本件水害後の昭和五三年度に至って完了した。

(五) 下流部においても、従前から県単独事業による工事をなしてきたが、昭和四六年度も河川流路整備費をもって、また、昭和四七年度からは国庫補助事業である河川環境整備事業を合わせて、夫婦橋から上流に向けて河床の掘削に着手している。

(六) 昭和三九年度から昭和四九年度までの間になされた平作川河川改修事業は別表(B)のとおりである。」に改める。

17  一八八丁表二行目「(四)」を「(七)」に改め、同所「改修率」の後に「(工事計画の消化率をいう。)」を加え、同丁裏一行目「その上流部」の後に「(平作川上流国鉄橋梁から田中橋の間の区間)」を加える。

18  一八八丁裏五行目冒頭から同所九行目までを次のとおり改める。

(一)  河川改修の手法

河川の溢水氾濫を防御するには、まず改修規模の目標の限界を設定し、一定の規模以下の流量に限ってこれを安全に流下させる能力の確保を目的として、河川改修計画が立案される。

右計画は、洪水防御の基本となる基本高水を定めることが第一の過程となる。この基本高水は、一般には河川の重要度、既往洪水による被害の実態、経済効果等の事情を総合的に勘案して、降雨量の年超過確率で評価することになり、大河川においては一〇〇年に一回から二〇〇年に一回の降雨規模、中小河川においては三〇年に一回から一〇〇年に一回の降雨規模を想定することになっている。しかし、直ちにこの規模の計画を実行することは資金的にも無理があることから、当面の達成目標を、流域面積二〇〇平方キロメートル以上の主要大河川については各河川で戦後発生した最大の洪水に耐えるように、またその他の早期に改修を必要とする中小河川については時間雨量五〇ミリメートル相当の降雨(年超過確率で五分の一から一〇分の一)を暫定の計画規模としている。このような計画降雨を前提として基本高水が設定される。このうえで、河道の改修区間の主要地点における基本高水流量の設定、河道などの諸元の設定、砂防計画や利水計画など他の観点との調整、代替案との比較検討などの過程を経て、右の河川改修計画が作成される。

(二)  昭和三九年度策定の河川改修計画

平作川については、昭和三九年度に第一回の河川改修計画が作られた。

(1) これは、降水の年超過確率として五〇年に一回の雨量を採用し、平作川及びその支川の流域に対する降雨により発生到達する流量を求め、この流量に基づいて平作川の改修に必要な河川断面を得ようとしたものである。この結果、降水確率五〇年(計画時間雨量七〇ミリ。但し、横浜気象台の一九四〇年から一九六五年の資料による。)の場合の平作川流量配分は、次のとおりとなる。

① 河口から上流二三〇〇メートル地点(No.四六)

毎秒三〇〇立方メートル

② 上流二三〇〇メートル地点から上流三五〇〇メートル地点(No.七〇)

毎秒二七〇立方メートル

③ 上流三五〇〇メートル地点から上流五八〇〇メートル地点(No.一一六)

毎秒一九〇立方メートル

④ 上流五八〇〇メートル地点以上

毎秒八〇立方メートル

(2) 右計画は、計画日雨量二五七ミリという数値を採用している結果、昭和三三年九月の狩野川台風が再来しても十分な流下量を有していると考えられていた。

(3) しかし、右計画をそのまま実施するには、財政的、時間的制約があったために、とりあえず時間雨量57.3ミリを採用し、これに基づいて暫定計画を立てた。この暫定計画によると、河口から上流二三〇〇メートル地点(No.四六)の計画流量は毎秒一八〇立方メートルであり、上流三五〇〇メートル地点から上流五八〇〇メートル地点(No.一一六)のそれは毎秒一一〇立方メートルとなった。(上流二三〇〇メートル地点から上流三五〇〇メートル地点(No.七〇)の間の流量は一八〇立方メートルと一一〇立方メートルとの間となるが、その数値は証拠上明らかではない。)

(4) 河川改修計画作成に当たり、昭和三九年一一月当時被控訴人神奈川県が把握していた平作川の現況流下能力は次のとおりであった。

19  一八九丁裏七行目「三五〇メートル)、」の後に「東亜橋(五六三〇メートル)」を加える。

20  一八九丁裏八行目冒頭から同丁裏五行目末尾までを次のとおり改める。

(三) 昭和四六年度作成の河道計画

昭和四五年ころには、急激な都市化の進展がすすみ、県下各河川の全体的な見直しをすることになり、平作川に関しては、昭和四六年に河川改修の基本計画である河道計画が策定された。

(1)  この計画は、まず将来計画としては、年超過確率一〇〇年に一回の雨量を想定し、この時間雨量93.2ミリに対応する河川改修を構想するものである。これによれば、平作川河口の流下能力は毎秒五二〇立方メートルとなるはずであるが、流量配分として、上流の黄金橋付近から一八〇立方メートルを分水するという内容がもられていた。しかし、それに至るまでは時間雨量74.1ミリメートル(年超過確率年三〇年に一回)を基礎とする暫定計画を作成し、さらに、これに至る当面の改修の実行としては時間雨量五〇ミリメートル(年超過確率年五ないし一〇年に一回、横浜地方気象台の統計では、六・三年に一回)を設定した実施計画を立ててこれを目途に全川的な安全度を向上させる改修を行い、その上で逐次将来目標に向けた改修を実行する予定としていた。

(2)  これらの整備目標を基礎として算定した将来計画の基本高水流量並びに分水路を設置した場合の将来計画及び暫定計画における各計画高水流量は、別表(二〇)のとおりである。

21  一九一丁裏六行目「(三)」を「(3)」に、一九二丁裏四行目「(四)」を「(4)」に改める。

22  一九三丁表五行目「及んでいる。」の後に「なお、平成元年三月末日現在では、知事が管理する河川は一一七河川、その延長は約七五六キロメートルである。」を加え、同丁裏四行目「二二〇億円であった。」の後に「また、昭和六三年度一般会計歳出予算総額は、一兆三六七七億三一七六万八〇〇〇円であり、河川改修費は三八〇億五六二二万五〇〇〇円であった。」を加え、同所七行目「用は」の後に「九五七億四三〇〇万円であるところ」を、「帷子川の」の後に「神奈川県東部」を加え、同所九行目「平均」の前に「一河川」を加え、同所一〇行目「であるが、」を「が費やされている。」に、同所「水害発生」を「右五河川に見られるような大規模な水害の発生」に改める。

23  一九五丁裏五行目「ひどかった」の後に「中津川、境川、狩川、内川の」を加え、一九六丁表六行目「関係」を「関連」に、同所七行目「三〇河川」を「二八河川三二区間」に、同丁裏三行目「着手し、」から同所五行目末尾までを「着手した。しかし、高度経済成長下における人口・資産の都市集中により河川周辺低地域への住宅進出がみられ、河川災害は一層増加し、殊に、昭和三六年六月の豪雨では大きな被害が発生した。この災害に対して河川等災害関連事業に着手したほか、三八河川五六区間において改修工事が実施され、この期間に投資した事業費も飛躍的に増大した。なお、平作川に対しても、昭和三九年河川局部改良事業が実施されていることは前記のとおりである。」に改める。

24  一九六丁裏九行目「四二河川」の後に「七九区間」を加え、同所一〇行目「増大した。」の後に「また、平作川についても、前記のとおり、昭和四一年から小規模河川改修事業が開始された。」を加え、一九七丁表六行目「増大した。」の後に「これらを含めてこの期間に着手した改修河川は、五七河川一〇二区間に及ぶ。」を加え、同所八行目「河川改修工事の」を「我が国の河川改修工事の」に改める。

25  一九九丁表八行目「公共下水道」を「暗渠」に、同丁裏二行目「一部開渠で大部分が暗渠」を「流路」に改める。

26  二〇〇丁裏一行目「成立について」から二〇一丁表末行「一ないし一二、」までを「成立について当事者全員に争いのない甲第三九号証の一ないし一二、第一〇九号証の一ないし三(ただし、控訴人らと被控訴人国及び神奈川県との間では、同号証の一、二については弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる。)、丙第二、第三号証、第八号証、第一〇号証、第一一号証の一、第一三号ないし第一六号証、第一七号証の一、二、第三七号証、前掲原審における控訴人岩村文雄及び第一審原告鈴木邦明の本人尋問の各結果並びに弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二九号証の一ないし三六、前掲原審における控訴人岩村文雄の本人尋問の結果及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第三〇号証の一ないし二九、第三二号証の一ないし一六、第三三号証の一ないし二四、第一〇二号証の一ないし二八(ただし、いずれも控訴人と被控訴人横須賀市との間では争いがない。)、前掲控訴人古谷正利の本人尋問の結果及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第三一号証の一ないし一四、第三四号証の一ないし一二(ただし、控訴人と被控訴人横須賀市との間では争いがない。)」に改め、同丁裏五行目「丙第二九号証、」の後に「当審における証人鶴田健次郎の証言により真正に成立したものと認められる丙第三四号証、」を加え、同所五、六行目「同鶴田健次郎」の後に「(原審及び当審)」を加え、同所六行目「各証言」の後に「、前掲原審における控訴人岩村文雄及び同古谷正利の本人尋問の各結果」を加える。

27  二〇一丁裏一〇行目「(1) 」の後に「平作川下流域が、江戸時代初期においては入江であったところ、万治年間に干拓されて、新田が開発されたことは、前記認定のとおりである。その後、吉井川は、平作川左岸の主要な水路として利用されるようになり、大正時代は、本件水害地域は概ね水田で、平作川に平行に五本の水路が走り、吉井川はそのうちの四本の水を集めて平作川に注いでおり、右地形から見て潅漑利水及びその排水に利用されていた。そして、戦後に至り、現在の久比里一丁目付近には多数の人家が建築され、吉井川流域の水田が宅地化されていくとともに、吉井川の流路も狭溢化していき、次第に潅漑用水路としての利用から汚水雨水の排除機能が中心となってきた。本件水害当時の」を加える。

28  二〇二丁裏六、七行目「水道部」を削除し、二〇三丁表八、九行目「設けられた暗渠」を「設けられた管路延長437.5メートルの暗渠」に、同丁裏二行目「防いでいるが、」から同所四行目「するとみられる。」までを「防いでいる。」に、同所一〇行目「敷設されたものであり、」を「敷設されたものである。したがって、甲水路は、その上端部標高約一一メートルの場所に設けた沈砂池を通過させた排水を、吉井川河床及び国道一三四号線の下をくぐらせて、直接標高0.075メートルの平作川河道に圧送するサイフォン構造となっていた。」に改める。

29  二〇四丁表二行目「計算されたので右甲水路が利用されるに至ったものである。なお、」を「計算されていたので、辰巳団地の排水にも右甲水路がそのまま利用されるに至った。」に、同所五行目「であるから、」の後に「その断面積だけ考えれば」を加え、同所七行目「吉井川」から同所九、一〇行目「になっている。」までを「前記のようなサイフォン構造となっているため、下流部におけるその流速は上流部に比較して二・三割程度早くなり、したがって、その管径は現状の一〇〇〇ミリメートルで足りるものである。」に、同所一〇行目「流下能力は」の後に「流速毎秒三メートルの場合、」を加える。

30  二〇四丁裏六行目「かつては」から二〇五丁表二行目「なっている」までを「昭和三三、三四年ころ京浜急行久里浜工場が造成される際、その敷地内に縦横に走っていた潅漑用水路に換えて、現在の姿のように右工場を取り巻いたうえ、既存の水路を利用して京浜急行線及び国道一三四号線をくぐり抜け、平作川に流入する流路に付け替えられ、そのため、乙水路は直角に屈折する形態となっている」に改め、二〇五丁表二行目「そして」の前に「このような形状であるために昭和三五年に地元からこれを直線化して欲しい旨の陳情〈昭和三三年九月の狩野川台風による水害に関して池田地区排水施設整備方に関する陳情〉が、横須賀市議会宛になされた。」を加える。

31  二〇五丁裏二行目「設置しなおされた、」から同所三行目「水路である。」までを「設置しなおされた一部暗渠、一部開渠の水路である。右水路は、池田町五丁目四〇番地先から京浜急行電鉄路線敷まで、さらに同所からしばらくの間が開渠であるほかは暗渠となっている。」に改め、同所七行目「作られている。なお、」を「作られ、その流域面積は64.2ヘクタールである。」に改め、同所一〇行目「昭和三五年に」から二〇六丁表二行目「横須賀市議会宛のもの)が、」までを「前記のとおり、乙水路と同様に丙水路の直線化を要望する陳情が」に改める。

32  二〇六丁表一〇行目、同丁裏四行目、同所一〇行目の各「供用開始の告示」を「供用開始の公示等」に改め、同所三行目「供用開始の告示」を「供用開始の公示」に改め、その後に「又は都市下水路の指定(以下、「供用開始の公示等」という。)」を加える。

33  二〇七丁表七行目冒頭から二〇九丁表一行目末尾までを次のとおり改める。

(一)  被控訴人横須賀市における下水道整備事業

(1) 被控訴人横須賀市においては、既に昭和一九年当時において、現在の追浜、田浦、吉倉、逸見汐入、上町地区にかけて下水道関係の計画が立てられていたが、その後終戦を経て、昭和三二年に右計画を実施可能な見通しのある地域に縮小限定するように変更した新計画を立案し、これによって、上町、不入斗、佐野の三排水区合計329.19ヘクタールについて下水道の整備が行われた。

(2) 昭和三八年には、受益者負担金制度が創設されて財源を確保できたことによって、右に若松排水区70.93ヘクタールが追加され、さらに日の出ポンプ場の建設が決定された。昭和三九年には、現在の三春、公郷第二排水区の一部に整備事業を拡大し、従来の上町処理場に加えて下町処理場が増設されることになった。昭和四三年には、この下水道整備を大幅に拡大することとし、現在の根岸、大津、馬堀、汐入を追加し計画処理面積を863.12ヘクタールに広げるとともに、汐入、根岸、馬掘の各ポンプ場を設けることとした。

(3) ところで、右のような事業は公共下水道整備として行われたものであるが、昭和四一年、横須賀市東部の追浜地区(追浜本町、追浜町、追浜東町、追浜南町の一部)76.63ヘクタールに対し、浸水排除を主要な目的として都市下水路整備事業が実施された。さらに、昭和四五年には、鷹取川の上流部分に拡張されることになり、第二次都市下水路整備事業として計画排水面積87.42ヘクタールが追加された。

横須賀市内には、昭和三五年当時で慢性的な出水に見舞われる地区は二〇数箇所に上っていた。追浜地区は横浜市に隣接していることもあって、戦後比較的早くから都市化して、人口が多く人口密度も高かったが、追浜地区における主要な水路である鷹取川流域はしばしば浸水被害に見舞われ、大きな災害を被っていた。右地区の浸水対策として予算を優先的に投下したものである。

なお、昭和四八年度の後記下水道整備計画策定時における人口密度は、本件水害地域である舟倉、池田地区(久比里第一排水区)が一ヘクタール当たり九〇人であるのに対し、追浜地区は一ヘクタール当たり一二〇名である。

(4) 以上のとおり、下水道整備事業はその範囲を順次隣接地域に拡大充実されてきていたが、昭和四七年に至ってようやく横須賀市のほぼ全域を対象とする下水道整備計画が立案され、これは昭和四八年三月三一日最終的に事業計画変更についての建設大臣の認可が下りた。これによれば、計画処理面積は、上町処理区563.9ヘクタール、下町処理区1928.53ヘクタール、追浜処理区351.67ヘクタール、合計2844.1ヘクタールに及ぶものであり、処理場は合計三箇所、ポンプ場一五箇所という全面的な計画であった。

この中には、これまで計画の対象地に含まれていなかった平作川左岸(池田、舟倉、久比里地区)についても、雨水排除と汚水処理を目的とした計画が立案された。これにより約一六億五〇〇〇万円の建設費をかけて舟倉ポンプ場が吉井川河口付近に設置され、昭和五二年から稼動するに至った(横須賀市のポンプ場としては六番目)。これは、右の地域が基本的に平坦な低地で自然排水が不良である上に、後背に山地をひかえ国道一三四号線及び京浜急行路線敷が高位置を占めるという地形であり、さらには吉井川が満潮時に平作川から逆流する感潮河川であって増水時に水門を閉じると平作川への排水が困難であるという問題があり、これらを解決する目的で設けられたものである。舟倉地区におけるポンプ場の建設については、被控訴人横須賀市としても、昭和四三年ころから、久里浜一体の都市下水道については、平作川の河床が高いため内水排除を考えなければならず、そのためにはポンプ場建設が必要であるとの認識には立っていたものの、財政的負担が大きいことから実行には至らなかったものであるが、久里浜地区一体の排水のためにはポンプ場建設を決定したものである。

しかし、この施設は吉井川の流水をポンプによって平作川に流入させることによって吉井川の排水能力を高めようとするものであるため、操業した後でも平作川が満水状態になったり、さらには溢水した場合には当然のことながら排水機能を喪失することになる。なお、右の舟倉ポンプ場の計画流量は、昭和四八年には毎秒3.6立方メートルであったが、昭和五三年には毎秒七立方メートル(その能力は毎秒9.3立方メートル)に増加変更された。

この計画は、昭和三二年度からの経費を含めて、総経費約四二六億四六〇〇万円を費やして、昭和五四年三月竣工を目指していた。

(5) その後、舟倉地区の浸水状況を考慮し、雨水排除機能を高めるために、昭和五三年に、建設大臣の変更認可を得て、乙水路の平作川への流入口付近に舟倉第二ポンプ場を設営することになり、用地の手当がなされ、昭和五四年から約三七億円をかけて建設され、昭和五八年度に稼動を開始した。

34  二〇九丁表二行目「(5)」を「(6)」に、同所九行目「(6)」を「(7)」に改め、同丁裏三行目冒頭から二一〇丁表五行目末尾までを削除し、二一〇丁裏末行「極地的な」を「局地的な」に改める。

35  二一五丁裏五行目「算定されていた。」の次に行を変えて、次のように加える。

5 下水道建設費

(1)  吉井川、甲・乙・丙水路の改修に要した費用

昭和三二年から本件水害まで(昭和四八年)までに、被控訴人横須賀市が吉井川、甲・乙・丙水路の改修にかけた改修工事費等は別表(C)のとおりである。

(2)  被控訴人横須賀市が、下水道建設に要した費用及びこれが一般会計全体に占める割合は、原判決添付の別表(一五)のとおりである

36  二一六丁表七行目「水防計画」から同所九行目「によれば」までを「水防計画によれば、災害予防の方針として、災害の防除を完全に実施することは現状では困難であるが逐次整備するとして計画され、」に、二一七丁表七行目「右防災計画は修正されたが、昭和四四年度」を「右防災計画は昭和四一年度に第一次修正がなされ、さらに昭和四四年度の第二次修正計画」に、同丁裏八行目「昭和四七年度の右防災計画の修正については」を「昭和四六年度の第三次修正及び昭和四七年度の第四次修正の右防災計画においては」に改め、同所九、一〇行目「ただし、」の後に「第四次修正の防災計画では」を加える。

37  二二一丁裏二行目「であって、」から同所八行目末尾までを「である。」に改める。

38  二二二丁表四行目「河川は、」の後に「降雨という自然現象から生ずる流水を対象とする」を加える。

39  二二三丁裏一〇行目「できないのである。」の次に行を変えて、次のように加える。

控訴人らは、地域開発等による雨水の流出機構の変化や地価の高騰は、開発の許認可権限を有する管理者側の事情に属することである旨主張する。

国又は地方公共団体が、開発について許認可権限を有する部分があり、右権限が国民及び住民の付託に応えて迅速適正に行使されることによりはじめて、調和のとれた地域環境の整備がなされることはいうまでもない。しかし、私有財産制を建前とする我が国の法制下においては、個人の経済的な自由権、それに基づく要請もまた十分に尊重されなければならず、したがって、水害の防御等もその一内容となるべき公共の福祉と右私的財産権は、相互に制約、調整されるべきものである。公共の福祉によって私的財産権が制限されるにせよ、その間に調和が保たれなければならない。したがって、法制上、地域開発を水害の可能性、危険性があるということだけで無制限に抑制できるものとしていない以上、地域開発、宅地開発などによる雨水の流出機構の変化等を単に地域開発等について許認可権限を有する管理者側だけの事情とすることはできないのである。

40  二二四丁表六ないし八行目「治水事業による河川の改修、整備の過程に対応するいわば過渡的な安全性」を「治水事業の過程における河川の改修、整備の段階に対応する安全性」に改め、二二六丁表二行目「五三頁」の次に「。なお、同六〇年三月二八日第一小法廷判決民集三九巻二号三三三頁、同平成二年一二月一三日第一小法廷判決判例時報一三六九号二四頁」を加え、その次に行を変えて、次のように加える。

(三) 控訴人らは、河川は、本来は自然発生的であったかもしれないが、現在では必ず人の手が加えられているのであって、人工公物との差異はないとし、さらに、水害という現象は、降雨という気象条件だけではなく、河川流域の地形や状況、海水の影響等の自然条件のほかに、土地開発という社会的条件によっておおきく左右されているから、すべてが自然的原因とはいえないと主張する。

しかし、河川が道路などとは異なり、国家賠償法二条一項の「瑕疵」の判断に際して別個の判断基準をとらざるを得ない所以が、道路等の営造物が通常は当初から人工的に安全性を備えた物として設置され管理者の公用開始行為によって公共の用に供されるのに対し、河川が、降雨という人為の及び得ない自然現象から生じる流水を対象とし、公用開始のための特別の行為もなく自然の状態において公共の用に供される物であるから、もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包していること(河川の特質)、したがって、河川の管理は、右の危険性をはらむ河川を対象として開始され、その安全性の確保は、全く人の手の入らない当初の状態から、段階的に治水管理の方途、方策を講じ、徐々に河川の危険性を減じ安全性の度合を高めていくことによって達成されていくものであるが、これについては財政的、技術的、社会的な制約が伴うこと(河川管理の特殊性)にあることは先に説示したとおりである。したがって、現在の時点において、河川によっては、さまざまな人為的な措置が採られ人工的な構造を有し、原始河川とは著しくその趣を異にしたものがあるにしても、それはまさしく、河川の安全度を増すための努力がなされた跡にほかならないから、本来的に、洪水等による災害をもたらす危険性を内包するという河川の性格に何らかの影響を及ぼすとは到底解することはできない。

なお、河川の危険性が、流域の開発、殊に宅地造成、道路整備、森林伐採などの水防環境の劣化により増加することは、控訴人の主張のとおりであり、これらの要素をも考慮して河川の氾濫溢水を防除すべき必要があることは当然である。しかし、それでもなお、河川の危険性を決定的に左右するものが降雨という自然現象であるということは否めず、その意味で、なお、河川の危険性は人為の及び得ないところにあるといわざるをえないのであり、したがって、河川が本来的に自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているということができるのである。

41  二二六丁表三行目「(三)」を「(四)」に改める。

42  二二七丁裏四行目「河川管理の瑕疵について」の次に行を変えて、次のように加える。

控訴人らは、本件の平作川については、その入江が開発されたことに伴い生れた河川であるという生成過程及び国道が護岸をなしているという構造によれば、自然公物ではなく人工公物であると主張し、したがって、前記の河川に関する瑕疵の判断基準は適用されるべきではないと主張する。

しかし、すでに説示したとおり、河川によっては、人為的な構造や措置が採られ、これにより旧来の河川から著しく変貌を遂げたとしても、それは河川の安全性が高められた結果に外ならないのであり、本件平作川に関しても、流路が整えられ、堤防が整備されて国道がその護岸上を走っている現状であっても、なお本来的に洪水等による災害をもたらす危険性を内包する河川としての性質を喪失するものではない。

ところで、前記認定のとおり、平作川の下流域は、入江が開発されてそこに作られたものである。入江の開発それ自体は、万治年間のことであり、今日的な十分な安全性を確保して提供されたものではないことも容易に推認できるところであり、仮に、平作川の下流域を人工公物に該当すると考えても、すでに述べた河川の特性、河川管理の限界に関する特徴を具備しているといえる。したがって、平作川の下流域につき通常の河川とは別個の法理を適用しなければならない理由はない。

43  二二七丁裏八行目「認識」を「降雨量の予見可能性」に、二二八丁表四行目「将来計画」の後に「(時間雨量93.2ミリメートル)」を加え、「改修実施計画」を「暫定計画(時間雨量74.1ミリメートル)」に改める。

44  二二九丁表九行目冒頭から二三〇丁裏一行目末尾までを次のように改める。

(2) 計画の策定

平作川については、前記のとおり昭和三九年、同四六年にそれぞれ改修計画を策定し、その実施基本計画に基づいて改修工事の実施を行っている。昭和三九年度における改修計画は、降水の年超過確率として五〇年に一回の雨量(計画日雨量二五七ミリ、計画時間雨量七〇ミリ。ただし、横浜地方気象台の一九四〇年から一九六五年の資料による。)を採用して行政目標を設定し、さらにとりあえず時間雨量57.3ミリを採用し、これに基づいて暫定計画を立案したものである。また、昭和四六年度作成の河道計画は、まず将来計画としては、年超過確率一〇〇年に一回の雨量(計画時間雨量93.2ミリ)に対応する河川改修を構想し、それに至るまでは年超過確率年三〇年に一回(計画時間雨量74.1ミリ)を基礎とする暫定計画を作成し、さらに、これに至る当面の改修の実行として年超過確率五ないし一〇年に一回(計画時間雨量五〇ミリメートル)を設定した実施計画を立ててこれを目途に全川的な安全度を向上させる改修を行い、その上で逐次将来目標に向けた改修を実行する予定としていた。右の各計画の立案過程、作成方法をみるに、河川改修の通常の方法に基づいて、計画立案されたことが認められ、その具体的内容も全体として格別不合理なところはないというべきである。

(3) 計画の作成時期及び実施状況

控訴人らは、昭和三三年の狩野川台風、昭和三六年の集中豪雨による溢水がありながら改修計画が立てられたのは、昭和三九年と遅きに失するとし、さらに本件水害までの間に改修工事が完成しないのは、それが遅延又は放置されたものであると主張する。しかし、前記認定の事実のとおり、平作川の改修は戦前に一応の整備がなされており、右の各洪水による後、河川改修の必要性を認識し、計画策定にいたる時期が昭和三九年になったとしても、前記河川管理の諸制約、殊に戦後の混乱期をようやく脱し、国家の経済的な自立が可能となり始めたその当時においては平作川のみならず改修を要する多数の河川が存在したこともまた推定でき、そのころしばしば襲った台風等によって災害を被った河川施設をとりあえずは復旧すべき必要があったであろうこと、その間においての本件水害地域における住民定着状況に鑑みれば未だ計画の決定が遅きに失したものとはいえない。また、平作川改修工事が、昭和四九年当時未完成であるとしても、河川改修が本来的に予算と時間を必要とすることは前記説示のとおりであるうえに、平作川に関しては、本件水害地域よりも溢水氾濫の危険度の高い部分から順次改修をすすめ、昭和三九年度から昭和四九年度までの間に別表(B)のとおり平作川河川改修事業が実施されていることからみても、改修工事が遅延又は放置されたと認めることはできない。さらに、計画策定時から本件水害時までに一〇年を経過しているが、河川管理行政をその他すべての行政需要とは切り離して優先配慮すべき特別な聖域とするならばともかく、幾多の行政施策の中の一つとして実行しなければならないものである以上、一〇年の期間内にこれが完成しないとしても、これを遅きに失し、放置したものと評価することは難きを強いるものであるといわざるをえない。

なお、それぞれの計画における実施予定期間が問題となるが、計画はあくまでも達成すべき行政目標であり、実行は予算単年主義のもとに行われるものであるから、計画の中で実施予定期間が明示されていないからといって、その計画が不合理であると論難しなければならないものではない。実際の実施状況からすれば、前記認定のとおり右計画に基づき逐次実行に移されていたのであるから、右計画を不合理ということはできない。

ところで、控訴人らは、これら工事のうち、現実に河川の安全度に影響した工事はさほど大きいものではないと論じるが、昭和三九年度から昭和四九年度までの間になされた平作川河川改修事業をみるに、災害復旧工事は勿論であるが、河川全体を通覧して、流下能力が低く狭溢な場所とりわけ橋梁部の架替、土砂堆積部の浚渫工事、護岸整備などの工事がなされているのであり、これらが河川の流下能力を維持保全するのみならず、護岸等の河川設備を改良向上し、ひいては洪水氾濫を防御するためのものであることは明らかであるから、控訴人らの右主張は理由がない。

(4) 神奈川県の他の河川との比較

前記において認定したとおり、昭和四〇年度から同四九年度までの一〇か年間に神奈川県知事が管理している河川に投入した総費用の比較(原判決添付別表(二))、平作川と同規模の河川における総費用の比較(同別表(三))を検討するに、流域面積二〇〇平方キロメートル以上の一河川当たりの被害額に対する平均投入額の割合が約3.73倍、県内東部河川のうち、横浜市・川崎市内の河川についてみると約2.20倍、横浜市、川崎市以外の河川では約4.24倍であるのに対し、平作川のそれは約7.51倍であることが認められ、さらに平作川と同規模の流域面積二五ないし三五平方キロメートルの一二河川では、投入金額の順位は第五位に当たるものであり、神奈川県内の他の河川との比較において、河川改修にかけた費用は勝るとも劣るものではない。

さらに河川の改修率においても、他の河川と同規模であって、これらと比較しても決して劣るものではないことも明らかである。

以上のとおり、平作川に対する河川管理状況は同種・同規模の河川管理に比較すると、格別不合理なものとは到底認めることができない。

45  二三〇丁裏九行目冒頭から二三三丁裏一行目末尾までを次のように改める。

ア  本件水害当時の平作川の流下能力については、五郎橋付近では毎秒一〇〇立方メートル、梅田橋付近で毎秒八〇立方メートルであったことについて当事者間に争いがないことを除き、これをその当時において測定したと認められる資料はなく、その数値を一義的に確定することはできない。被控訴人国及び神奈川県の提出する〈証拠番号略〉には、本件水害当時の夫婦橋及びその他の地点における流下能力を計算した結果が示されているが、その作成年月日等から推測される作成経緯及びその計算内容が簡単で、しかも参照するに足る資料の添付もないことなどに照らして右数値を直ちに採用することはできない。しかし、以下の検討によれば、右数値もあながち不相当ではなく、夫婦橋付近では毎秒一八〇立方メートルに近い程度の流下能力を有していたと推認することができる。

すなわち、前記のとおり、被控訴人神奈川県は、昭和四六年度に平作川河道計画案を立案した当時、平作川の流下能力を把握しており、これは河道計画案を立案計画するために測定等してこれを把握したものと認められ、右数値は右河道計画の成立経過等に照らして採用し得るものと考えられる。そうすると、少なくとも、昭和四六年当時においては、右の各数値が平作川の流下能力であったと認めるべきである。ところが、その後本件水害時である昭和四九年度までの間に、前記において認定したとおり、平作川各所において、小規模河川改修事業、河川局部改良事業、都市河川環境整備事業等の一環として、橋梁架替、河川浚渫、堤体嵩上げ、護岸工事等を実施しているのであるから、これら河川改修工事によりその施工部分に関しては、昭和四六年当時よりは、流下能力が改善向上しているものと認められる。前掲〈証拠番号略〉によれば、昭和四六年以降の平作川の流下能力の改善に資すると考えられる工事は次のとおりである。

① 河口と河口上流約二〇〇〇メートル付近まで

昭和四六、四七年 浚渫工事(二万〇三〇〇立方メートル)

昭和四七年 堤防嵩上げ工事四〇〇メートル

② 日の出橋付近からその上流約二八〇メートル付近まで

昭和四八、四九年 浚渫工事(九四三八立方メートル)

③ 根岸橋付近

昭和四九年 護岸及びパラペット工事

④ 湘南橋下流約五〇メートル付近から五郎橋上流約三〇〇メートル付近まで

昭和四六年 護岸工事

⑤ 五郎橋付近

昭和四六、四七年 五郎橋、国鉄橋架替

昭和四九年 護岸工事

⑥ 五郎橋付近から五郎橋上流約二〇〇メートル付近まで

昭和四八、四九年 護岸工事

⑦ 田中橋付近

昭和四八、四九年 護岸工事、パラペット工事

⑧ 田中橋上流衣笠地先、左岸

昭和四六、四七年 護岸工事

⑨ 田中橋から黄金橋まで

昭和四八年 浚渫工事

⑩ 舞台橋付近

昭和四七年 舞台橋架替

⑪ 黄金橋付近

昭和四八、四九年 護岸工事

⑫ 久里浜(場所不明)

昭和四八年 浚渫工事(五一二四立方メートル)

右の各工事を考慮すると、昭和四六年以降、河口から日の出橋付近までの下流域、湘南橋下流から五郎橋上流付近までの上、中流域、田中橋から黄金橋までの上流域について、流下能力は改善向上したものと認めることができる。昭和四六年当時五郎橋上流一〇〇メートルの地点で流下能力がわずかに48.9立方メートルであったものが、本件水害当時五郎橋付近では一〇〇立方メートルにまで増加したのも、これらの改修工事の成果であるとうかがえる。そうすると、同様な観点からみて、平作川下流域における流下能力も、右の合計三万四八〇〇立方メートルに及ぶ浚渫工事などにより、昭和四六年当時の能力である一三〇立方メートルから大きく向上したものと推認することができるのであって、そうすると、前記〈証拠番号略〉において導出された夫婦橋付近の流下能力毎秒約180.3立方メートルとの数値をあながち不相当と排斥することはできず、およそのところは毎秒一八〇立方メートルないしそれに至らないまでも比較的近接した数値であった(また、パラペットがない場合の流下能力も当然向上した)と推認することができる。

以上の流下能力を前提として、本件水害当時における平作川の治水機能をみるに、全体としては直ちに暫定的計画流量ないし当面の計画流量に対して早急に具体的措置を講じなければならない程不十分な流下能力とは考えることができず、かえって従来の狭さく部がかなり改善されていることも認められるから、平作川全川を通じまず必要度の高い箇所から逐次危険箇所に着手していたことをうかがうことができる。なお、控訴人ら主張のように夫婦橋付近には、舟着場、漁業資材用小屋等が存在していたことは前記のとおりであるが、このことから、その付近における流下能力に影響を及ぼし、若干の数値の低下をもたらしたであろうことは推認するに困難ではない。しかし、この程度を明らかにした証拠はないうえに、日の出橋付近より上流である地域がはるかに少ない流下能力しか有していない点に比較すると、夫婦橋付近に若干の阻害要因があるとしてもこれがため本件水害を惹起したとまで考えることはできない。

五郎橋部分の流下能力よりもその下流部分の一部(根岸橋付近の区間及び森崎橋付近から湘南橋と梅田橋の中間付近までの区間)に若干能力の劣る部分があったことは被控訴人国及び神奈川県の自認するところであるが、そこでの一定区間をみるとその地点での流下能力以下に限定されるとはいいきれないし、前掲証人高木徹、同中村浩幸の各証言によればこれが平作川の流下能力の阻害になっていたとは認められない。そして、右の狭溢な部分は本件水害地域からかなり上流域であるから、これがなければ本件水害地域における溢水が避けられたとは考えられないし、平作川全体を通じて、昭和三六年の水害以降本件水害までの間溢水が生じていなかったことをも考え合わせると、右の狭溢部分の存在が河川管理上特別に危険な箇所であると認めることもできない。

イ  次に、控訴人らは、流下能力が年超過確率五年の降雨により算出した計画流量よりも、平作川の本件水害当時の流下能力が乏しく、しかも下流域について流下能力を高める努力をしていないと主張する。

しかし、まず既に認定したとおり、治水に関する全国的な行政目標が、当面の達成目標を、主要大河川以外の河川で早期に改修を必要とする中小河川については時間雨量五〇ミリメートル相当の降雨(年超過確率で五年の一回から一〇年に一回)を暫定の計画規模としているのであるが、本件の平作川についても、昭和四六年度に河道計画が策定されたものの当時の平作川の状況及び資金手当ての関係から、全国目標と同様の五〇ミリの降雨に耐えるようにすることを第一段階としたものであり、全体のバランスに配慮しながらその達成を目指して、脆弱な箇所から順次改修に着手してきたものであって、それについて特段に遅滞、遅延又は放置したと認めるに足る証拠もない。そして、前記の河川管理の特性、諸制約の存在に鑑みれば、平作川の流下能力が右目標に到達していないことをもって、通常有すべき安全性を欠如したものとすることはできない。また、本件水害地域を含む下流地域の流下能力が、昭和三九年当時、昭和四六年当時において、さほど大きな進展をみなかったことは控訴人主張のとおりであろう。しかし、それは下流地域が堤防設備としては一応の完成をみており、それに比較して上流、中流域の未完成部分の危険性が顕著であったことに由来するのであって、その後、先に認定のとおり、昭和四九年までに河口から日の出橋付近までにかけて浚渫工事が実施されているのであり、その結果、ある程度の成果を挙げているとみるべきこと前記認定のとおりである。したがって、被控訴人国又は神奈川県が本件下流部分を故なく放置したとみることは相当ではない。

46  二三三丁裏二行目「イ」を「ウ」に改める

47  二三六丁裏八行目「また」から一〇行目末尾までを「なお、前記認定のとおり、A・B区間の平作川左岸のうちほぼB点から上流に六〇〇メートルくらいは、その上下流部に比較して約五〇センチメートル低くなっているが、それにもかかわらず、前記説示のように、昭和三三年、同三六年の溢水以降は本件水害まで同箇所からの溢水はなかったのであるから、他に特段の事情も認められない以上、特に同箇所について計画を変更して早期に工事を実施しなければならないほどの危険な状態があったものと認めることはできない。」に改める。

48  二三九丁表五行目「できない。」の後に「そして、前記認定のとおり、本件水害当時は満水時においても、人道橋を大きく越えて河川水の流下があったことはなく、平作川の河川の水の高さは、結局パラペットの底辺を越えず、また、パラペットの切れ目から流水が入ったのはあくまでも洪水の流勢によるものであったのであるから、本件水害において、右のパラペット開口部の存在が河川の安全度に具体的悪影響を与えていたとは考えることはできない。」を加える。

49  二四〇丁表末行「できない。」の次に行を変えて、次のように加える。

(5) なお、本件水害後、夫婦橋付近を含む一連の区間の改修工事がなされたが、これは本件水害による被害に鑑み、平作川流域住民に再び同種被害を受けさせてはならないという国民の合意が得られたこと、本件水害を契機として昭和四九年度に右工事が災害復旧助成事業に採択されたこと、昭和五一年度に異常な豪雨により激甚な一般災害を受けた河川について洪水による再度の災害を防止することによって民生の安定を図ることを目的とした激甚災害対策特別緊急事業制度が新たに創設され、平作川が同年度から同制度の適用を受けることとなったことなどに基づくのであり、本件水害発生時点以前において改修工事を緊急若しくは他に優先して行わなければならない特段の事由があったことを推認させるものではない。

(6) 宅地開発による被害の広範性及び水害発生要因の増大

既に認定したとおり、平作川における本件水害発生地域は、昭和四〇年代から急激に宅地開発が進み、これによって人家、人口が増加し、水害被害も増加したこと、また山林、農地の減少により土地の保水機能が減退し、水害発生の可能性もまた増加したことは明らかである。しかし、具体的にどの程度に保水機能が減退したかを明らかにした資料はないうえに、当時の我が国では、殊に都市周辺部において宅地の造成が著しくすすんでいたものであって、そのような状況は、首都圏に含まれる神奈川県下の他の河川流域でも同様であったと推定して差し支えないと思われる。したがって、既に説示したような河川管理の諸制約に照らせば、順次、必要性と危険性の高い河川、箇所から逐次改修を遂げていかざるを得ないのであるから、平作川について、しかも本件水害地域のみをとりあげて、その被害が広範化しまた水害発生要因が増大したことを理由に直ちに無条件に改修、管理する必要があったと考えることはできない。

(7) 水害発生の現実化

控訴人らは、その居住地域の特性と近時の開発により、平作川の流下能力が流出雨量を受け入れきれなくなったため、平作川が溢水しないときでも、平作川の影響を受けた吉井川、乙・丙水路の流下が阻害されてそこから溢水し、そのため毎年のように浸水被害を受けていたことを指摘し、水害発生の危険性は現実化していたと主張する。本件水害地域では、しばしば内水による溢水のために、浸水被害が多発していたことは明らかであるが、それが平作川の影響を受けたゆえに生じたことを認めるに足る証拠はなく、むしろ本件水害発生地域が本来的に低湿地であり、宅地開発が顕著になる以前からその状況はあったのであるから、平作川の影響があったがゆえに、浸水被害を受けていたと断定するのは困難である。

50  二四〇丁裏三行目「増大させたことが」を「増大させ、また、水害対策の必要について社会的関心が集まるようになっていたとしても、」に改める。

51  二四一丁表一行目冒頭から二五〇丁表五行目末尾までを次のように改める。

三  吉井川及び甲・乙・丙水路の設置管理の瑕疵について

1  河川と下水道

(一)  本件水路の下水道該当性

下水道法は、「この法律は、流域別下水道整備総合計画の策定に関する事項並びに公共下水道、流域下水道及び都市下水路の設置その他の管理の基準等を定めて下水道の整備を図り、もって都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与し、あわせて公共用水域の水質の保全に資することを目的とする。」と規定し(同法一条)、下水道の概念を、「下水を排除するために設けられる排水管、排水渠その他の排水施設(かんがい排水施設を除く。)、これに接続して下水を処理するために設けられる処理施設(屎尿浄化槽を除く。)又はこれらの施設を補完するために設けられるポンプ施設その他の施設の総体をいう。」と定めている(同法二条二号)。このうち、主として市街地における下水を排除し、又は処理するために地方公共団体が管理する下水道で、終末処理場を有するもの又は流域下水道に接続するものであり、かつ、汚水を排除すべき排水施設の相当部分が暗渠である構造のものが公共下水道(同法二条三号)、もっぱら地方公共団体が管理する下水道により排除される下水を受けて、これを排除し、及び処理するために地方公共団体が管理する下水道で、二以上の市町村の区域における下水を排除するものであり、かつ、終末処理場を有するものが地域下水道(同法二条四号)、主として市街地における下水を排除するために地方公共団体が管理している下水道(公共下水道及び流域下水道を除く。)で、その規模が政令で定める規模以上のものであり、かつ、当該地方公共団体が第二七条の規定により指定したものが都市下水路(同法二条五号)として、同法の適用を受けるが、前二者については供用開始の公示(同法九条)、後者については都市下水路となるべき下水道の区域の公示等が必要とされている(同法二七条)。

そこで、まず、吉井川及び甲・乙・丙水路(以下、「四水路」という。)が下水道法上の下水道に該当するかについて検討する。

前記認定の事実によれば、吉井川は、大正時代から、水田の潅漑用水路の流水を集めて平作川に注いでおり、潅漑利水及びその排水に利用されていたが、吉井川流域の水田が宅地化されていくとともに、吉井川の流路も狭溢化していき、次第に潅漑用水路としての利用から汚水及び雨水の排除機能が中心となってきたものであって、少なくとも本件水害当時には、すでに潅漑用水路としての意義を喪失し、下水排除設備として機能していたというべきである。また、乙水路も、平作川左岸の農業用潅漑用水路が整備されまとめられたものであるが、現時点ではその働きを失い、吉井川と同様の機能を果たしているとみるべきであり、甲水路、丙水路に関しては、その設置当初の経緯からして下水道の機能を有していたことは明らかである。

そして、前記認定のとおり、右四水路は、いずれも終末処理場を有しておらず、かつ流域下水道にも接続せず、都市下水路の指定がなされたことを明確にする資料もないが、いずれも被控訴人横須賀市において事実上管理を行い、吉井川及び甲・乙・丙水路を昭和四八年の横須賀市公共下水道事業計画において雨水幹線として組み入れているのであるから、都市下水路の指定がなかったとしても、下水道法二条二号の下水道であることは明らかである。

(二)  本件水路の普通河川としての性格

ところで、河川法においては、河川を「公共の水流及び水面」(同法四条一項)として定義する。自然の川や湖沼がこれに該当することは勿論であるが、人工の水流や水面であっても、自然の水流を阻止し、流路を変更し、又は水面を拡張する等自然の水流及び水面に人工を加えて設けられた水路は一般公共の用に供され又は供され得るものとして、公共の水流及び水面としての性質を失うものではない。また、都市化する以前において設置された用水路等にみられるように、特定の目的を持って設置された人工の水流及び水面であっても、現在その目的を失い、私人の管理に服することなく、一般公共の用に供されているものも、公共の水流又は水面に該当すると解される(しかしながら、上水道や潅漑、発電等のための用水路や都市下水路等の特定の用途に供される人工の水流や水面はこれに含まれない。)。

ところで、同法は、その適用対象としては、一級河川及び二級河川として指定されたものに限定し(同法三条一項)、このほかに、河川法の規定を準用する河川として準用河川の制度が設けられている(同法一〇〇条)。これらはいずれもその区分に従い、建設大臣、都道府県知事又は市町村長が管理することになる。しかし、これらの指定を受けないものについては河川法による規制はなく、一般に普通河川と呼ばれている。

弁論の全趣旨によれば、本件水路は、一級河川、二級河川(以下「適用河川」という。)又は準用河川の指定を受けていないことが認められるので、普通河川としての性格を有しているかどうかを検討する必要がある。

(1) 吉井川

吉井川が、少なくとも大正時代から、水田の潅漑用水路の流水を集めて平作川に注いでおり、潅漑利水及びその排水に利用されていたこと、しかし吉井川流域の水田が宅地化されていくとともに、吉井川の流路も狭溢化していき、次第に潅漑用水路としての利用から汚水雨水の排除機能が中心となってきたものであることは前記認定のとおりであるが、吉井川が現在のように平作川に流入する水路として生まれた過程及び時期は、必ずしも明らかではない。しかし、いずれも成立に争いのない〈証拠番号略〉によれば、遅くとも明治二八年には、現在の起源地点より更にほぼ西北方向に向かい、現在の京浜急行久里浜工場敷地内を横切り、大塚古墳遺跡のある山の麓に至った点に源を発し、諸所の潅漑用水路の水流を集め、平作川に流入する形態を備えており、それが昭和三五年ころまで続いていたが、京浜急行久里浜工場の造成に伴い、現在の姿になったことが認められる。被控訴人横須賀市がこれを管理するに至った時期も明らかではないが、原審における証人小口晶弘の証言によれば、遅くとも昭和三〇年代にはこれを事実上管理していたことが明らかである。そして、右形態及び吉井川という名称から明らかなように、吉井川は、平作川の支流であったのであり、被控訴人横須賀市の管理の開始に当たり、吉井川が人工的な安全性を確保したうえで供用されたものではないこと自体には疑いがない。そうすると、吉井川が潅漑用水路として利用されるに至っていたとしても、それが潅漑を目的とする構造物として設置されたわけではなく、むしろ流域の雨水を流下させることを主な機能としていたわけであるから、吉井川は、その生成過程からみて普通河川である。

また、降雨という自然現象により、程度の差こそあれ、洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているのであり、管理を開始した公共団体は、その管理開始後、逐次その安全性を向上させる努力が必要であり、予想される洪水等による災害に対処すべく、さまざまな流路改修を行うことによってその安全性の確保が達成されていくことが当初から予定されていたものであるといわなければならない。

なお、前記認定のとおり、吉井川は横須賀市公共下水道事業計画において雨水幹線として組み入れられているのであるが、下水道や潅漑用水路と河川との区別は自明のものであるわけではなく、例えば、河川として取扱うか下水道(殊に都市下水路)とするかについては、後記の昭和四八年七月五日建設省都市局長河川局長通達「河川と下水道の管理分担基準」があるが、所詮は、当該地方公共団体の判断によるにすぎないのであり、普通河川が都市下水路として指定され、更には当該都市における公共下水道事業計画に雨水幹線として組み入れられることもあるのである。そして、当該計画により設置され、管理者の公用開始行為によって公共の用に供された後はともかく、それまでの間は、たとえ公共下水道事業計画に組み入れられたとしても、そのことによって、普通河川としての性格が左右されるものではないというべきである。

(2) 甲水路

甲水路は、昭和四一年ころ、舟倉町東方に位置する長銀団地が造成された際、被控訴人横須賀市が造成業者に対し、当時における建設省の指導基準に基づき、安全性を考慮して時間雨量六〇ミリメートルに対応する排水量を造成地から直接平作川に圧送するように行政指導した結果敷設された暗渠構造の水路で、完成と同時に被控訴人横須賀市の管理に移ったものであり、その後造成された辰巳団地の排水にも利用されるに至ったことは前記認定のとおりである。そうすると、甲水路は、普通河川に該当しないというほかない。

(3) 乙水路

乙水路は、前記認定のとおり、昭和三三、三四年ころ京浜急行久里浜工場が造成される際、その敷地内に縦横に走っていた潅漑用水路に替えて、現在の姿のように右工場を取り巻いたうえ、既存の水路を利用して京浜急行線及び国道一三四号線をくぐり抜け、平作川に流入する流路に付け替えられたものである。ところで、乙水路は新たに開削されたわけではなく、前掲〈証拠番号略〉中の車両工場敷地計画予定地附近平面図と現況を突き合わせれば、現在の乙水路はその大部分が従来の水路を通っているものと認められる。また、現在はすでに潅漑用水路という本来の目的を失っていることも明らかである。そして、原審における証人小口晶弘の証言によれば、乙水路が付け替えられる前の従前の水路及びその下流水路は遅くとも昭和三〇年代には被控訴人横須賀市の管理に属していたことが認められるから、被控訴人横須賀市が乙水路及びその前身の水路の管理の開始に当たり、これらが人工的な安全性を確保したうえで公共の用に供したものでないことは明らかであり、これもまた、平作川の枝葉の水系に属する普通河川であるというべきである。

また、乙水路も、他の河川と同様に程度の差こそあれ、洪水等自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているものといわなければならない。

(4) 丙水路

丙水路は、昭和四四年に池田団地が造成された際にそれまであった水路(前掲〈証拠番号略〉によれば池田川と呼ばれていたことが明らかである。)を利用して、同団地の雨水、汚水を排除するために改修されたものであり、被控訴人横須賀市の行政指導により団地造成業者が時間雨量六〇ミリの降雨を基準として設置した水路である。そして、前掲証人小口晶弘の証言によれば、この水路も昭和三〇年代に被控訴人横須賀市において事実上管理していたものであることが認められる。したがって、これもまた平作川の枝葉の水系に属する普通河川であるというべきである。

被控訴人横須賀市が管理を開始するに当たり人工的な安全性を確保したうえで公共の用に供したものでないことは明らかであって、その後において、被控訴人横須賀市が行政指導において一定の安全性を示し、造成業者がそれに応じ、相応の造成をしたとしても、それはまさしく、その安全性を高めるための相当の措置ということができる。丙水路が、洪水等自然的原因による災害をもたらす危険性を内包している点も乙水路と同断である。

以上によれば、甲水路は、下水道として扱えば足りるが、吉井川及び乙・丙水路は、下水道であると同時に普通河川でもあるといわなければならない。

2  普通河川たる下水道と段階的安全性基準

(一)  普通河川たる下水道の管理

普通河川については、地方自治法二条三項二号に基づき、地方公共団体が、普通河川条例により(条例が制定されていない場合には当該土地が通常建設省所管の国有財産とされているところから建設省所管国有財産取扱規則に則り)、自主的に管理することとなる。

ところで、河川法による河川の区分は、河川の公共性の強弱の度合いの違いに基づくものとされており、したがって、普通河川については、適用河川又は準用河川に対する管理以上に強力な河川管理を施さない趣旨であると解されている(最高裁判所昭和五三年一二月二一日第一小法廷判決民集三二巻一七二三頁参照)。

他方、都市部にある普通河川については、昭和四八年七月五日建設省都市局長・河川局長通達「河川と下水道の管理分担基準」より、流域面積二平方キロメートル以上は適用河川又は準用河川、流域面積二平方キロメートル未満は下水道として管理することを原則とするが、適用河川若しくは準用河川又は下水道として指定(都市下水路にあっては下水道法二七条の指定、公共下水道及び流域下水道にあってはそれぞれ同法四条及び二五条の三の認可をいう。)することが適当でないものは従前どおり普通河川として管理するものとされている。しかし、右通達では、流域面積二平方キロメートル未満のものであっても、治水上の影響の大きいもの、下流の河川改修と一体として整備することが適当なもの等は例外的に河川として管理することができるものとすると定めているから、河川として指定されない普通河川にとどまるものは、一般的には治水上の影響が大きくないもの、換言すれば氾濫の危険性の大きくないものということができよう。このことは、普通河川であって、事実上下水道としての機能を有し、管理者において下水道として整備しているものについても同様に妥当するであろう。

(二)  普通河川たる下水道と段階的安全性基準

(1) 平作川が溢水する以前において既に四水路からの溢水があり、これが本件水害のはじまりであることは前記認定のとおりであり、控訴人らは、これらが公共下水道であるとしてその設置管理に瑕疵があると主張するところ、被控訴人横須賀市は四水路の設置管理の瑕疵についても河川に対するのと同様の基準によりその存否を判断するべきであると主張する。

既に述べたとおり、河川に関しては、河川の特質、河川管理の特殊性があり、それゆえに道路その他の営造物の管理の場合とは、その管理の瑕疵の有無についての判断基準も異なるものである。

前記認定のとおり、吉井川及び乙・丙水路は、下水道法上の下水道としての性格と普通河川たる性格とを併せ持つから、この点を踏まえて右の判断基準(これを以下「段階的安全性基準」という。)が本件水路についても適用があると解すべきかを検討する。

(2)  段階的安全性基準は、適用河川又は準用河川について論じられたものであることに留意するならば、右に該当しない普通河川について、直ちに同様に解されるものではない。

一般的にいうならば、前記説示のとおり、普通河川は、その公共性においても、河川としての危険性においても、河川法上の河川に劣るものであるから、直ちに段階的安全性基準が適用されるとはいえないであろう。

しかし、都市部にある普通河川は、下水道としての機能を有し、それがゆえに地方公共団体としてはこれを普通河川としてではなく下水道として事実上管理しているのであり、近時における都市水害の実態に鑑みれば、同じく普通河川であっても、その公共性、河川としての危険性は都市部以外にある普通河川とは比較にならないものがあり、しかも究極的には、公共下水道、流域下水道又は都市下水路として整備しなければならないものであるから、都市部にある普通河川管理の重要性は、河川法上の河川の管理に比肩し得るものといっても過言ではないであろう。

そして、都市部にある普通河川を公共下水道として整備するについては、後記のとおり種々の制約が伴うから、都市部にある普通河川については、むしろ都市排水路(以下、指定や認定の有無を問わず、事実上の機能の面からみて、主として市街地における下水を排除する機能を果たしている普通河川たる下水道を「都市排水路」という。)の観点から、その管理について検討する必要がある。

もっとも、都市排水路といっても、一定の計画に基づき当初から人工的に安全性を備えたものとして設置され、管理者の公用開始行為によって公共の用に供されるもの(公共下水道、流域下水道等)から河川ないし溝渠であって都市下水路として指定され、又は未指定のまま下水路として管理されているものまで、さまざまなものがあり、また、都市排水路であっても、公共下水道として整備される必要のあるものもあれば、公共下水道整備計画に組み入れられなくとも、都市排水路としての管理の十全を期し得るものもあるから、右の相違をすべて無視し、都市排水路一般としてその管理を論じることは相当ではない。

本件水路の性格に鑑み、都市排水路であって、究極的には公共下水道として整備を図らなければならないものに問題を限局して、都市排水路の観点から、段階的安全性基準の適用について検討することとする。

(3)  都市排水路は、汚水又は雨水を排除するためにある排水施設であり、降雨という自然現象から生ずる流水を対象とし、それを安全に海その他の水域に流下させるという機能を有しなければならず、いわば同一機能を河川と分掌しているものであるといえるうえに、人為が及び得ない自然現象である降雨による洪水等の災害を惹起する危険性を有するという点においては河川と同様であり、また下水を河川に放流して排水をしなければならない限りにおいては、放流先の河川の流下能力いかんによって排水路の排水能力の上限が画される関係にあって、したがって、放流先河川との関連性を考慮しながら安全性確保のための整備が図られなければならない。

また、河川管理について前に説示した種々の制約は、都市排水路管理についても、程度を異にするにしても妥当するといわなければならない。

まず、社会的制約についてみれば、計画区域に隣接する区域の開発等による雨水の流出機構の変化、地盤沈下、低湿地域の宅地化及び地価高騰等による排水施設の取得困難その他の事情は下水道についても同様である。

次に、技術的制約についてみるのに、放流先である河川の流下能力いかんにより下水道の排水能力や放流方法が左右されるのであり、放流先が河川である限り、むしろ河川との関連を考慮しながらその安全性確保のための整備が図らなければならず、単に下水道管理の観点のみで先行することは困難であるという技術的制約がある。

さらに、財政的制約についても同様である。我が国においては、農業の特殊性から、欧米諸国に比し下水道の普及が立ち後れており、そのため下水道の整備を要すべき区域は多数存在し、これを実施するには莫大な費用を必要とするものである。下水道施設の普及状況は、昭和四三年度末で全国の市街地面積に対する普及率21.1パーセント、昭和四五年度末の推定で23.6パーセントというものであり、これに対し政府は昭和四四年二月二一日、総額九三〇〇億円を投じ下水道の普及率を昭和四六年度末には32.5パーセントとすることなどを骨子とし、昭和四二年度を初年度とする第二次下水道整備五か年計画を定めたのであるが、計画第四年度である昭和四五年度においても進捗率は極めて悪く、総事業費は目標の68.4パーセントであり、達成率がさらに下回ることが懸念されていた。そこで政府は、昭和四五年五月一日閣議決定した「新経済社会発展計画」において、昭和四五年度から昭和五〇年度までの計画期間中の公共投資総額約五五兆円のうち、下水道を含む環境衛生部門に三兆一四〇〇億円(下水道部門二兆三〇〇〇億円)を見込み、これにより下水道の普及率を三八パーセントに引き上げることを想定したのである(同計画における国土保全部門における投資総額は三兆七〇〇〇億円である。)。このように、下水道の整備には莫大な費用と長年月を要するのである(以上、建設省昭和四五年七月作成「下水道事業の動向」(〈書証番号略〉)による。)。

もとより、河川法上の河川の整備と右の下水道の整備との間には相当の懸隔があると考えられるが、河川の管理主体である国等と財政的規模において相当の隔たりがある下水道の管理主体である市町村にとっては、このような場合における財政的制約の度合いは、河川管理における財政的制約の度合いに匹敵するものといわなければならない。

(4)  そうすると、一般的に、都市排水路であって、究極的には公共下水道として整備を図らなければならないものについては、河川法上の河川に準じて段階的安全性基準を適用するのが相当であると考えられる。

そこで、以下、具体的に、吉井川及び乙・丙水路についての段階的安全性の適用の有無について検討する。

(三) 吉井川及び乙・丙水路と段階的安全性基準の適用

(1) 法的性格と施設管理の目的

吉井川及び乙・丙水路の法的性格について検討するに、前記のとおり、下水道法上の下水道ではあるが、下水道法においてその規制の対象となっている下水道ではなく、それ以外の下水道(単なる都市排水路)に過ぎず、また普通河川でもある。

そのような単なる都市排水路の施設管理の目的は、終末処理場を有しないものであるから、下水道一般とりわけ公共下水道や流域下水道とは異なり、健全な都市機能としての雨水・汚水の排除、そのための施設の地域全般にわたる整備、確保という目的はほとんどなく、主として雨水を排除し、浸水、溢水による都市水害を防止することにあるといわなければならない。

(2) 吉井川及び乙・丙水路管理と諸種の制約

ア 前記認定のとおり、吉井川及び乙・丙水路は、平作川の支流ないしその枝葉の水系に属するものであり、いずれも放流先は平作川である。そうすると、平作川の流下能力如何により、吉井川及び乙・丙水路の排水能力や放流方法が左右されるものであり、平作川との関連を考慮しながら、その安全性確保のための整備を図らなければならず、下水道管理の観点のみで先行することができないという技術的制約があるといわなければならない。

イ 右の技術的制約は財政的制約にもつながる。すなわち、放流先である平作川の流下能力が吉井川及び乙・丙水路による放流を受容する能力がない場合には、単に排水管、排水渠等下水路設備自体が計画基準降雨量内の雨水等を十分流下、放流できる能力を備えているだけではその安全性確保のための整備がなされたということはできず、放流先を変更するか、余剰雨水を適切に滞留させるために調節池を設置する等河川の改修事業に準ずる大規模な事業が必要となることも考えられるし、そこまでに至らないとしても、例えばポンプによる圧力排水を図る場合には、ポンプ場設置のための用地取得が必要となることもあり得る。そのような場合は、都市排水路について通常考えられる、比較的小規模な施設によって限られた計画区域の雨水及び汚水を排除、処理し、都市における市民生活に影響を与える浸水被害を回避するための措置を講ずるのとは異なり、相当多額の費用と長年月を要することになる。

前記認定のとおり、被控訴人横須賀市としては、昭和四三年ころから、久里浜一体の都市排水路については、平作川の河床が高いため、内水排除のためにはポンプ場建設が必要であるとの認識には立っていたものの、財政的負担が大きいことからその実行には至らなかったものであり、事実、その後建設された舟倉ポンプ場及び舟倉第二ポンプ場の建設費はそれぞれ約一六億五〇〇〇万円、約三七億円に達するものであった。

ウ 吉井川及び乙・丙水路の安全性確保のための整備についても種々の社会的制約が存することは、前記認定事実から明らかである。

なお、控訴人らは、社会的制約に関連して、被控訴人横須賀市において宅地化について規制すべきであったと主張するが、私有財産制を建前とする我が国法制下においては、個人の経済的な自由権、それに基づく諸要請もまた十分に尊重されなければならず、それが水害防御等もその一内容となる公共の福祉と、相互に制約、調整されるべきものであるから、被控訴人横須賀市側の事情としてではなく社会的制約として考慮されるべきことは既に説示したとおりである。

以上の次第で、吉井川及び乙・丙水路については、河川法上の河川に準じて、これを都市排水路として通常予測し、かつ、回避し得るあらゆる水害を未然に防止するに足りる下水道施設として完備するには、相応の期間を必要とするから、それまでの間は、未整備又は整備不十分な都市排水路として、その通常備えるべき安全性は、諸制約のもとで一般に施行されてきた下水道事業の段階に対応するいわば段階的な安全性をもって足りるとしなければならないというべきである。

3  吉井川及び乙・丙水路の管理

前記のとおり、吉井川及び乙・丙水路については段階的な安全性をもって足りると考えなければならない。そして、前記認定のとおり、被控訴人横須賀市は、関係機関と協議のうえ時間雨量六〇ミリメートルを基準として、下水道事業計画を策定し、昭和四八年度において、吉井川及び甲・乙・丙水路も雨水幹線として計画の中に組み入れられ、これが実施されつつある段階にある。そうすると、既に下水道事業計画が定められ、これに基づいて現に施工中である下水道事業については、右計画が、全体として、同種・同規模の下水道の管理の一般水準及び社会通念に照らし是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として格別不合理なものと認められないかどうかを検討し、これが格別不合理と認められないときは、その後の事情の変動により当該下水道事業計画の未施工部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更する等して早期に工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事情があるかどうかを考察しなければならない筋合である。

右の下水道事業計画の合理性について検討する。

(一)  下水道事業計画の内容等の合理性

(1) 本件水害までに順次、段階的に拡大、変更を加えられ、実施されてきた公共下水道事業計画自体は、その目的、内容、策定経過に照らして特に合理的妥当性を欠くとみられるものはないということができ、前記認定の本件水害後のポンプ場設置時の想定時間雨量、昭和五六年の水害発生もその日雨量等からみて、本件水害当時までの下水道事業計画の合理的妥当性自体を直ちに動かすものではない。

(2) 控訴人らは、下水道事業計画内容が、時間雨量六〇ミリメートルを基準としており、この基準降雨量は過小に過ぎると主張する。しかし、前記認定のとおり、右設定値は、神奈川県内においては横浜市と並んで最も高い基準であり、多雨地域である四国、九州地方を除けば、全国的にも高い水準にあると考えられ、その基準の設定自体に過誤があるとは到底認められない。

これに対して、控訴人らは、下水道事業計画の認可基準の一つとして「当該地域の降水量」があげられていることを理由として全国平均を基準とすべきではないとし、さらに平作川の昭和三九年度改修計画において、時間雨量七〇ミリメートルが基礎数値として採用されたこと、また放流先河川との関係や地形的特性を勘案すれば、水害発生の危険性は高く、したがって、時間雨量七〇ミリメートルを基準とすることが相当であるとする。

本来下水排水施設は、特別の施設を除き、ほとんどは比較的小規模な施設によって都市全般にわたり日常の市民生活から生ずる汚水及び自然降雨による雨水を都市の市民生活に重大な悪影響を与えない程度に排水処理をするための営造物なのであるから、極大の降雨にも耐えられ、完全に排水可能な機能を常に期待することは困難であり、ある程度の範囲に止まるのはやむを得ないところであり、国が管理する河川に比べその基礎降雨量がやや低く押えられることも避けられないものである。また、平作川の昭和三九年度改修計画は、降水確率五〇年(計画時間雨量七〇ミリ。)を採用したが、右計画をそのまま実施するには至らず、時間雨量57.3ミリに基づいて暫定計画を立てているのであり、また、昭和四六年度の河道計画は将来計画としては、時間雨量93.2ミリ、それに至るまでの暫定計画では時間雨量74.1ミリメートル、これに至る当面の改修の実行としては時間雨量五〇ミリメートルを設定しているのであり、前記の河川と下水道との相違をも考慮するならば、本件水害地域の特殊性や平作川との関係を斟酌しても、下水道整備の実施基準が低きに過ぎるということはない。

(二)  下水道事業計画の時期の合理性

(1) 控訴人らは、下水道事業計画の期間は合理的期間になされたとは到底いえないと主張する

前掲控訴人大和田義雄、前掲第一審原告石渡友吉、同北村藤兵衛、同山本卯一の原審における本人尋問の結果、前掲証人古川隆、同三ツ橋隆子の各証言及び弁論の全趣旨によれば、昭和三六年度以降においても本件水害当時までに、たびたび平作川の溢水を伴わない下水道からの溢水による床上又は床下浸水があったことが認められ、したがって、下水道対策が本件の地域について望まれていたことは明らかである。しかし、前記認定の事実によれば、被控訴人横須賀市の戦後の下水道整備は、昭和三二年から横須賀市の中心地区である上町排水区等合計329.19ヘクタールから始まったが、その本格的な実行は、昭和三八年に受益者負担金制度が創設されて有力な財源を確保できたころからであり、その後、昭和三九年、同四三年と、その範囲は順次隣接地域に拡大充実され、昭和四七年に至って、本件水害地域を含む横須賀市のほぼ全域を対象とする下水道整備計画が立案され、昭和四八年に着手されたものである。そうすると、被控訴人横須賀市は、その事業を計画し、順次これを実施する態勢をとって施行を継続し、逐次その事業計画を拡大、変更を加えてこれを実施しつつあるもので、その経緯自体に不合理と認められるところはない。また、前記認定のとおり、横須賀市内には、昭和三五年当時で慢性的な出水を被る地区は二〇数箇所に上っていたのであるから、すでに下水道整備を着手完成した地域からその周辺流域に拡大し、順次浸水地帯を解消していくことは合理的であるし、本件水害地域のみを他に先駆けて特に整備しなければならない理由はない。

また、全国レベルでの比較をみるに、被控訴人横須賀市の下水道整備率は、全国の一般都市の整備率に比して、遜色がなく、その点でも遅滞遅延したということもできない。

(2) ところで、昭和四一年、横須賀市東部の追浜地区76.63ヘクタールに対し、浸水排除を主要な目的として都市下水路整備事業が実施され、さらに、昭和四五年には、第二次事業として計画排水面積87.42ヘクタールが追加されたことは前記のとおりである。しかし、追浜地区は横浜市に隣接していることもあって、戦後比較的早くから都市化し、人口が多く人口密度も高かったが、追浜地区における主要な水路である鷹取川流域はしばしば浸水被害に見舞われ、大きな災害を被っていたこともあって、まず優先的に改修事業に着手したものであり、その判断が不合理と認めるべき理由はない。

これを舟倉地区との比較で見ると、昭和四八年度の後記下水道整備計画策定時における人口密度は、本件水害地域である舟倉、池田地区(久比里第一排水区)が一ヘクタール当たり九〇人であるのに対し、追浜地区は一ヘクタール当たり一二〇名であると高く、人口増加についても、舟倉地区が概ね昭和四〇年ころから急増傾向にあったのに対し、本件現場の写真であることに争いがない〈書証番号略〉及び当審における証人鶴田健次郎の証言によれば、追浜地区は昭和三〇年代に人口、家屋数が急増したことが認められるのであるから、本件水害地域との比較において、まず追浜地区を優先したことが不合理であるとは到底考えることができない。そして、それ以降は、主に公共下水道事業として被控訴人横須賀市は、公共下水道の整備を拡大しており、昭和四七年において、舟倉、久比里地区を含めた広範な地域に対する公共下水道整備計画を立案しているのであるから、その間の時間的遅れは、前記の諸制約に鑑みれば、やむをえない範囲内と判断することができる。

(三)  下水道の改修計画の時期の合理性

以上のとおり、被控訴人横須賀市が実施した下水道事業計画そのものが遅滞したということはできない。しかし、下水道事業計画は、都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与し、あわせて公共用水域の水質の保全に資することを目的とし、計画区域内の幹線下水路及びこれに連結する支線排水管、排水渠等の排水施設、終末処理場、それ以外の処理施設を総合的に把握したうえ、段階的に整備を実施することが期待されているのであるが、計画の中には普通河川たる排水路も整備の対象として組み入れられている場合もある。したがって、下水道事業計画全体としては時期的にやむをえないものとされても、そのことだけで計画に組み入れられた特定の排水路の安全性確保に瑕疵がないと判断することはできず、なお、当該排水路の洪水防御という観点から、それについて特別に改修の時期を早める必要があったかどうかを検討する必要がある。なぜなら、公共下水道計画に基づく本格的な下水道整備には多額の費用と相当の時間を必要とし、他の地域との関連において、普通河川たる排水路の事業計画の組入れ、それに基づく公共下水道としての整備を将来に譲らざるを得ない場合がありうるのであるが、それにより、その間、当該排水路の管理責任を免れることにはならず、公共下水道としての整備は先に譲るとしても、取り合えず、都市排水路としての整備を急がなければならない場合もあるからである。

(1) 吉井川について

ア 吉井川の管理状況

(ア) 前記認定のとおり、被控訴人横須賀市が吉井川の管理を開始した後、昭和三五年三月七日から昭和四九年三月三〇日までに施行した工事の概要は別表(C)のとおりである。

これによると、昭和三四年度から昭和四八年度までに合計一億一三九六万三八三七円の金額が投じられているが、このうち、昭和四九年に支出された前記認定の被控訴人横須賀市の下水道事業計画に基づく舟倉ポンプ場関係が一億〇三五三万七五七一円であり、それ以外は一〇四二万六二六六円に過ぎず、また、吉井川の護岸石積工事が始まった昭和四三年までは、昭和三五年度の吉井川改修計画測量経費一六万五〇〇〇円を除けば、吉井川清掃工事等にわずかに四八万一〇〇〇円が投じられたに過ぎないことが明らかである。

(イ) この間、吉井川の管理に関連して次のような状況があった。

① 昭和三三年一二月一一日、横須賀市内川新田一四七六番地番場仙一外五五〇名から横須賀市議会に対し、同年九月二六日の台風二二号襲来による平作川の溢水被害に関連して、水神川(吉井川の別名である。)の浚渫等を請願する書面が提出された(〈書証番号略〉)。

② 昭和三五年六月八日、京浜急行久里浜工場の造成に関連して、舟倉町、池田町の住民から船倉水害対策特別委員会等名義で横須賀市会議長宛てに、造成されれば水害の公算は益々増大することは必至であるとして、被控訴人横須賀市において排水施設の万全を期することを要望するとともに、住民の希望として、池田川(現在の丙水路に相当する。)及び京浜急行が建設する予定とされている現在の乙水路の平作川への放流経路を在来の水路を利用することなく(本件水害当時は、乙・丙水路とも在来の水路を利用していた。)、下流部において北西方向に屈曲する部位から直接平作川に流下するよう、南西方向に向かう水路を設置して貰いたいとの要望書が提出された(〈書証番号略〉)。

③ 昭和三六年にも平作川が溢水し、本件水害地域は大被害を被り、新聞等でも市内の排水、下水道の不完全さ、整備の不足が指摘された(〈書証番号略〉)。

④ 昭和三九年度の被控訴人横須賀市の地域防災計画において本件水害地域は溢水氾濫の危険があるとして水害危険区域で重要度Bとされ、同計画の昭和四七年度修正版では、久比里二―五―一一から二―七―二までと舟倉一三五〇から一三六〇までと一九九六が浸水・高潮危険箇所とされ、被害範囲は七九棟、一一四所帯に及ぶとされていた(〈書証番号略〉)。

⑤ 昭和四二年九月二二日開催の横須賀市議会本会議の審議において、「昭和三八年六月、台風二号、雨量一〇九ミリメートルで二四五棟、昭和四〇年五月二七日、雨量八六ミリメートルで六六四棟、昭和四一年六月二八日、台風四号、雨量二三八ミリメートルで二八六棟、このような浸水被害を出しておりまして、この被害地区は、追浜、内川新田、船倉等でございます。」との指摘があった(〈書証番号略〉)。

⑥ 昭和四五年ないし四七年には吉井川の溢水による床上浸水(建設省の水害統計では、昭和四五年が四九センチメートル以下一一戸、昭和四六年が九戸、昭和四七年が六戸)が生じた(〈書証番号略〉)。

(ウ) 以上によって考えると、昭和三四年以来昭和四三年まで、その間本件水害地域においては吉井川の管理に関し種々の問題を抱えながら、被控訴人横須賀市は殆ど何らの対策も講じていなかったものと評価せざるを得ない。

昭和三五年度においては吉井川改修計画測量なるものが行われているが、前掲証人小口晶弘の証言によっても、被控訴人横須賀市においてその測量結果に基づき吉井川改修計画が立案されたことは明確にされていない。

(エ) また、昭和四四年度には、漸く吉井川護岸石積工事が行われているが、それに先立つ昭和四一年に、舟倉町一九九五番二、一九九六番二八の吉井川沿いの被控訴人横須賀市所有の土地(公簿上は田、一九一三平方メートル、現況は宅地及び雑種地、実測1867.55平方メートル。なお、この土地は、吉井川の水流部分が狭まった結果、溝渠敷として不要となり、大正一一年三月三一日公用廃止のうえ、神奈川県知事より当時の久里浜村に無償下付されたものの一部である。)につき、隣接地使用者及び所有者から宅地化する計画で払下げの申し入れがあったところ、被控訴人横須賀市は、昭和四三年七月四日、処分するのが適当と判断して、払下げ処分をしている(〈書証番号略〉)。

イ 吉井川の管理の瑕疵

以上のとおりの事実をもとに、吉井川が本件の公共下水道事業計画に組み入れられる時点における管理の瑕疵の有無を判断するに、前記認定のとおり、本件水害地域においては昭和四四年の護岸石積工事の後も昭和四五年ないし昭和四七年に吉井川の溢水による浸水被害が生じているにもかかわらず、護岸石積工事が追加されることも、パラペットが設置されることもなく(〈書証番号省略〉は、本件水害後の工事により吉井川にパラペットが設置されたことが明らかである。)、昭和四五年ないし四八年までの間に土砂浚渫工事等に五二九万三〇〇〇円が投入されたに過ぎないのである。

昭和四三年における護岸石積工事費が総額四四五万円であったのであるから、護岸石積工事の追加、パラペットの設置に要する費用が予算上の制約から支出不可能なものであるとは到底考えられず、昭和四五年においては、鷹取川流域で二六戸、船越川流域で四戸、汐入川流域で一一戸の、昭和四六年においては、鷹取川流域で一〇戸、関の入川流域で五戸の、それぞれ浸水又は内水による被害があったこと(〈書証番号省略〉)など、被控訴人横須賀市において管理している河川ないし下水道の他の流域における被害が発生した事実を考慮しても、吉井川に対する被控訴人横須賀市の管理状況は、なお不適切であったとみざるをえない。したがって、被控訴人横須賀市としては、その公共下水道計画に基づく下水道の段階的整備は格別としても、本件水害地域における吉井川の溢水被害の状況に照らして、早期にその改修を実施すべきであったというべきである。しかも、前記認定のとおりの改修状況は、他の同様に溢水被害が生じた同種同規模の水路での改修状況と比較するまでもなく、不備であるというべきである。

(2) 乙・丙水路について

ア 乙・丙水路について、被控訴人横須賀市が管理するようになってから、どのように被控訴人横須賀市が管理していたかについてはなんら主張、立証がない。そして、昭和四八年までに乙・丙水路の管理に関し何らかの工事がなされたことについても何らの主張、立証はない。

イ 乙・丙水路に関連して種々の問題があったことは(三)記載のとおりである。特に昭和三五年六月八日には、京浜急行久里浜工場の造成に関連して、地元住民から、現在の乙・丙水路の下流部における平作川への放流経路を在来の水路を利用して屈曲させることなく、直接平作川へ流下するよう新たな水路を設置して貰いたいとの要望が出されていた。しかし、この要望は入れられることにはならず、乙・丙水路は、在来の水路を利用して平作川へ放流することとされた。

このような措置がとられたのは、結局は予算上の制約によるものと推測されるが、当時における乙・丙水路の段階的安全性確保のために住民の要望に沿う措置を採ることが必要であったのかどうかについては、これを明確にする資料はない。

ウ しかも、昭和四八年までに乙・丙水路の溢水によって浸水被害が生じたことを認めるに足りる証拠もない。

もっとも、〈書証番号略〉、同本人尋問の結果によれば、同原告は、昭和四七年七月と昭和四八年一一月に浸水被害を受けたが、その原因は下水道の不備、乙水路の未整備にあるとしていることが認められる。しかし、同原告本人尋問の結果によっても、乙水路が溢水したこと及び下水道の未整備が具体的に何を意味するかは明らかではない。

また、〈書証番号略〉によれば、D地区に居住していた第一審原告らは、昭和四八年一一月にそれぞれ浸水被害があり、その原因は下水道の未整備、不完全にあると指摘していることが認められるが、その指摘する下水道の未整備、不完全が具体的に何を意味するかを明確にする資料がないことは前同様である。

かえって、〈書証番号略〉、前掲原告本人尋問の結果によれば、D地区は、北東側を京浜急行軌道敷(標高2.56メートル以上)に、南東側を国道一三四号線に至る道路(標高2.4ないし2.84メートル)、南西側を国道一三四号線(標高2.6ないし3.1メートル)によって画された土地であり、前記第一審原告らの居住する部分は標高1.35ないし2.04メートルと他に比較して低い窪地状の部分であり、降雨の場合、右地内の道路を流れる雨水が国道一三四号線に通ずる道路等により堰き止められて、溜池状態になることがあることが認められ、したがって、第一審原告らの前記指摘は排水設備の不備を指摘するに帰することが明らかである。

また、原審における証人古川隆の証言によれば、昭和四一年九月から昭和四八年までに三、四回にわたって、丙水路が大雨のため横須賀市池田町五丁目四〇番地地先において溢水し、道路が冠水したことが認められるが、同証言によっても浸水被害が生じたことを認めることはできない。

そうすると、乙・丙水路については、早期にその改修を実施すべき必要があったということはできない。

(四)  特段の事情等

以上によれば、被控訴人横須賀市の公共下水道事業計画においては、本件水害事故地域に公共下水道が整備されるまでの間、吉井川の段階的安全性を確保する何らかの措置が定められることが必要であるところ、本件全証拠によってもこれを認めることはできないが、同時に、乙・丙水路について、下水道計画策定の後の事情の変動により当該下水道計画の未施工部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更する等して早期に工事を施工しなければならないと認めるべき特段の事情も、本件全証拠によるも、認められないのである。

4  甲水路の管理

(一)  甲水路の管理の瑕疵

甲水路が人工公物たる下水道として取扱うべきであることは前記認定のとおりである。そして、甲水路に関しては、通常予測される災害に耐えられるだけの安全性を有していることが必要と解すべきである。ここでいうところの通常予測される安全性とは、下水道事業の目的、性格に照らせば、当該下水道を個別的具体的にみて、地域の自然的条件や社会的環境の下で、工作物等の人工設備を含め当該下水道が、通常予想される規模の流量に対し、これを安全に海又は河川等の水域に流下させ、もって流水の滞留を生じさせることのないような安全な構造を備えることをいうと解すべきである。

下水道が、比較的小規模な施設によって都市全般にわたり日常の市民生活から生ずる汚水及び雨水を都市の市民生活に影響を与えない程度に排水処理をするための営造物であるという下水道の特性に鑑みれば、健全な都市機能として最低限度必要な雨水、汚水の排水機能を有しないで、都市における市民生活に重大な悪影響を与える浸水被害やこれに類する影響を生ずる程度に、右の機能を欠如し、欠陥があるときは、下水道の設置管理に瑕疵があるものと考えるのが相当であり、したがって、軽微な床下浸水程度の浸水被害であって、都市の市民生活に大きな影響を与えない程度の浸水被害であるときはこれに当たらないと解するのが相当である。

(二)  人孔について

前記認定の事実によれば、甲水路に設けられた二か所の人孔から鉄蓋がはずれ、この部分から流水が噴出したと認められる。

甲水路は、昭和四一年長銀団地の造成に伴って設置されたものであるが、その構造は、その上端標高約一一メートルの場所に設けた沈砂池を通過させた排水を、吉井川河床及び国道一三四号線の下をくぐらせて、直接標高0.075メートルの平作川河道に管径一〇〇〇ミリメートルのヒューム管を用いて圧送するサイフォン構造となっており、その人孔開口部の鉄蓋の裏面には中心棒に固定されたアームにより外枠に止められる構造となっていたことも前記認定のとおりである。

ところで、人孔は、下水管渠の起点、会合点、交差点、分岐点又は勾配・方向・断面の交わる所に設置するもので、掃除、検査、通風、修理などのための出入口で、蓋は密閉したものが多いとされている。

そして、前記認定のとおり、甲水路が流出能力毎秒2.4立方メートルであるのに対し、計画流出量が毎秒約1.8立方メートルであることからも明らかであるように、通常は、下水管渠内の流量が流出能力を上回ることを予定されていないから、蓋は、本来、下水管渠の流水が外部に溢れることを防止する目的のためのものではなく、人孔への落下を防止するためのものであると考えられる。

他方、〈書証番号略〉によれば、甲水路が平作川と接する地点では、管底高は0.075メートルであり、当時の平作川の河床高は、マイナス0.14メートルで、平作川の高水位は2.553メートルであることが前提とされていたことが認められる。

そうすると、本件水害事故当時、甲水路に設けられた二か所の人孔から鉄蓋がはずれたが、これは、本件水害当時は、雨量が極めて大きかったのであり、甲水路に流入する雨水の流量もしたがって大きく、平作川の流量も、前記認定のとおり、平作川の右高水位を遙かに上回るものであり、そのために甲水路に流入した雨水が平作川に圧力排除されることができず、甲水路の下水管渠内に極めて大きい水圧が生じたためであると推定される。

したがって、甲水路の人孔の鉄蓋がはずれたからといって、甲水路に瑕疵があったということはできない。

(四)  甲水路の流量について

甲水路は、時間雨量六〇ミリメートルを基準とし、右雨量に対処する施設として設置完成されている。そして、その施設が、右雨量にみあわない規模であったとする証拠はない。

次に、右時間雨量が、通常予測される流量として適正なものであるかどうかを検討しなければならないが、それが適正なものであることは横須賀市の下水道事業計画の基準降雨量について説示したところによって明らかである。

(五)  市民生活への影響

次に、甲水路からの溢水が、都市の市民生活に対し、いかなる影響を与えたかについて検討するに、その流下能力は、管径一〇〇〇ミリ全体で毎秒2.4立方メートル、余裕を含めても三立方メートルであり、人孔開口部は直径六〇〇ミリメートルにすぎない。右のような施設内容と流量を考慮すると、甲水路からの溢水流だけでは、到底本件水害地域における内水の貯留により床上浸水の被害にまで至ったと考えることはできないのであり、この点においても設置管理の瑕疵には当たらないと解すべきである。

5  以上の次第であるから、本件水害事故との関連において、被控訴人横須賀市の吉井川の設置管理についての瑕疵は認められるが、甲・乙・丙水路の設置管理についての瑕疵は認められないというべきである。

四  吉井川の設置管理の瑕疵と本件水害事故との因果関係

1  前記認定によると、次のとおりである。

吉井川は、全長一〇七〇メートルであるが、平作川は流路延長約一〇キロメートルである。

そして、本件水害事故当時、平作川はほぼ全川に沿って約六〇〇ヘクタールが浸水した。その流量は、平作川の洪水処理機能を遙かに上回るもので、当日の平作川の洪水の最大流出量は、ほぼ平作川河道の全区間において、安全に流下させる流量を少なくとも二ないし三倍と遙かに上回るとの計算結果も示されている。

また、平作川の本件水害発生地域における溢水は、当日午前六時ないし七時から午前一一時から一二時にかけほぼ五時間に及び、一時期における国道一三四号線上の溢水の高さはおおよそ六〇センチメートルから一メートルに及ぶというものであった。

2  右によれば、前記認定のとおり、本件水害当日、吉井川の溢水が午前四時三〇分から五時ころにかけて始まり、平作川の溢水は午前六時ころから七時ころまでの間に始まったことを考慮にいれても、本件水害時における平作川の溢水量の膨大な規模に比較すれば、吉井川の溢水量は問題にならない程度であり、吉井川の管理の瑕疵と本件水害事故との間には相当因果関係があるとは認め難いといわなければならない。

もっとも、被害住民の一部には、内水のみにより床上浸水した者も存することは否定し得ないが、内水の総量自体が平作川を含めた総溢水量に比較して限られた一部にしか当たらないことは、内水の具体的水量を測定するに足る資料がないにしても、推認するに難くなく、その内、吉井川の溢水量はさらに限定されるのであり、吉井川の溢水量のみにより床上浸水したと認めることができる被災者は存しない。したがって、本件浸水被害の全部について、その責任が吉井川の管理の瑕疵に帰するものと認めることもできない。また、吉井川からの浸水によって控訴人らが個々具体的にどの範囲で被害を受けたかを区別し、これを明らかにした資料もないので、結局、右想定される溢水の一部についても直ちに被控訴人横須賀市に責任を負わせることもできないし、右のとおり、先の流下水量を考慮すると、その割合は無視し得る程に極小であることが推認し得るのである。

二よって、控訴人らの本訴請求を棄却した原判決は結論において相当であり、本件控訴は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法三八四条、九五条、八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官山口繁 裁判官安齋隆 裁判官森宏司)

別紙

請求金額一覧表・承継人一覧表・被害一覧表・平作川流下能力一覧表・平作川改修経過表・吉井川周辺工事施行調〈省略〉

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